全十室のアパート。名ばかりの民泊。『オリンピックハウス』とベニヤ板にペンキで殴り書きされた文字は今にも消えてなくなりそうだ。

 錆びついた鉄階段は誰かが歩くたびに部屋にまで振動が伝わってくる。だから、誰かが訪ねてきたらすぐにわかる。そして、隣や下の部屋、いや、もっと言えば、どこかの部屋で事が始まればすぐにわかる。ただ、生活音はほとんどしない。みんな、息を殺すように生きているからだ。

 オリンピックハウスには、サナのような境遇、つまり、借金のカタに身柄を取られ、ウリをさせられている者が入居していた。全員、生活保護を申請させられ、通帳を取り上げられている。生活保護からは月に一万円だけ本人に入り、あとは組に搾取されている。

 サナのようにウリができる者はいいが、客がつかない者や、ウリができない男の場合は、オレオレ詐欺のかけ子や受け子として使い捨てにされる。彼らはオリンピックハウスには住めず、もっと劣悪な環境、つまりホームレスに近い環境で暮らしているようだ。それを考えると、六畳一間と半畳ほどのキッチンにトイレがついているだけでも天国か。風呂はないが近くに昔ながらの銭湯がある。

 ただ、客を取るたびにシャワーがあればなと思うことがある。客もそう思うようで、かといってシャワーを新設することもできないため、サナは、ウェットタイプの介護用の体拭きを自腹で購入し、それで客と自分の体を拭くことにしていた。

 万年床。商売用の布団だ。サナはそこで寝るのが嫌でいつも押入れの座布団の上で寝ている。部屋には前の住人が置いていったであろうテレビがあるが、冷蔵庫もなければエアコンもない。夏は扇風機、冬は電気ストーブで凌いでいる。テーブルもない。食事はたいていコンビニの弁当やパンですますからテーブルは必要ない。その食事も一日一食だ。お金を使いたくないということもあるが、ここへ来てからは、食欲を感じることがなかったからだ。食べないと、低血糖になって倒れそうになるから食べているだけだ。 

 三十分で五千円。サナの取り分は五百円。一日二十人客をとって、ようやく一万円が手元に残る。天気の悪い日などは坊主のこともあるので、その日は、収入はゼロだ。最低保証額なんてあるわけがない。家賃や光熱費も取られている。家賃は五万。こんなボロボロのアパートなのに……。

 毎月の平均収入は十万円ほど。そこから家賃の五万円と光熱費や食費を引くと手元に残るのは数万円だ。それをせっせと父親の口座に振り込んでいた。

 ヤクザは毎日集金にやってくる。売上はごまかせない。見張りがいるわけでも監視カメラが仕掛けられているわけでもない。帳簿や領収証の控えもない。だが、ごまかすとバレる。なぜかバレる。人間、嘘をつく時は普段と微妙に様子が違うのだろう。特に観察眼に優れたヤクザにごまかしは通じない。今まで売上をごまかそうとしてそれが発覚し、半殺しの目に遭わされた人間を何人も見てきた。だからサナはそんな愚を犯さない。

 ただ、いつになったら借金が完済するのか、ここを出て自由になれるのかがわからないことが不安だった。

 そんな中、ルンと出会った。助けを必要としているような様子で駆けてきたルンを放っておけなかったのだ。人助けができる余裕などないというのに。     


 出会いの時点で、互いに相手のことを自分の弟、妹という目で見ていたため、恋愛感情はなかったが、色々と話をするうち、二十五歳の同い年だということがわかった途端、お互い相手を異性として意識し始めた。

 だが、すぐにそんな淡い想いは打ち消され、現実と向き合わされた。

 陽が沈む頃、鉄階段に甲高い音が響き渡った。

「来た……ヤクザ」

 呟くようにサナが言う。そして、「早く隠れて」と押入れを指さした。

 ルンは脱いでいたダウンジャケットを抱え、押入れへ飛び込んだ。サナがルンのスニーカーを放り投げてくる。サナが襖を閉めると同時に玄関ドアが開く気配がした。ルンは息を殺した。

「おい、コラ! なにサボっとんねん!」

 怒鳴り声。押入れの中、ルンは戦慄に震えた。

 ヤクザが怒鳴ったことに対してではない。その声に聞き覚えがあったからだ。

 まさかと思いながらも、じっと息を殺し、耳を澄ませる。

「す、少し体調が悪くて……」

「体調が悪いやと? 布団も畳みやがって……ふん、まあええ。今日の上がりを寄越さんかい!」

 間違いない、ヤマト会の田口だ。ルンやチャンも毎日のように投げつけられていたセリフだ。

 いや、しかしここは新世界。ヤクザには縄張りがあると聞いている。そして、ヤマト会のシノギの場所はミナミのはずだ。

「これだけかい。もっと気張って稼がんと、いつまでも借金減らんぞ!」

「……あとどれくらい残っているんですか?」

「知るか。自分で計算せい!」

「自分でって……」

「やかましいわい! 黙って働け!」

 鈍い音。サナの呻き声。再び鈍い音。

 ルンは恐る恐る五ミリだけ襖を開けた。サナは男に足蹴にされていた。顔がこちらを向いている。歯を食いしばり耐えていた。最初に一度呻いただけで、その後は声を上げることなく、目をカッと見開いている。

 男は、やはり田口だった。気分次第でルンやチャンに殴る蹴るの暴行を加える男。三十歳を過ぎているようだが、まだチンピラだ。ファーのついたフェイクレザーのロングコートにジーパン。冬は常にこの出で立ちだ。

 田口はサナの背中や脇腹を執拗に蹴り続けた。先の尖った革靴を履いたままだ。

 サナを助けなければ……しかし、ルンは動けなかった。

 怖かった。恐ろしかった。震えていた。

「クソ! 胸くそ悪いわい!」

 ようやく蹴るのをやめた田口が部屋を出ていこうとする。と、玄関口で振り向き、言った。

「今朝、うちで飼ってたベトナムのクソが飛びやがった。シャブを持ってな。もし、ベトナム人がここへ客として来るようなことがあったら、すぐに連絡せい。間違っててもかまへん。あいつらにはネットワークがあって、居場所がわかるかもしれへんからな。ちなみに逃げた奴らはルンとチャンという名前や」

 田口がドアを開ける。再び足を止め、振り返った。

「間違っても匿うなんて真似するなよ。もし、そんなことしたら、おまえはもちろん、家族も皆殺しや」

 甲高い音を鉄階段に響かせながら田口が去っていく。だが、なぜか、田口が遠ざかれば遠ざかるほど、ルンの体は硬直し、動けなくなった。

 サナが襖を開ける。

「もう大丈夫やで、ルンちゃん」

 サナは笑顔だった。健気な笑顔。その笑顔を見た瞬間、ルンは涙を流していた。

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