ルンは三年前、ベトナムから技能実習生として日本へやってきた。

 技能実習制度というのは、発展途上国の若者が、先進国の産業技術を学び、それを祖国へ持ち帰って国の産業発展に貢献するというものである。

  そして、祖国の学校で専攻した学問に関わる産業技術しか学ぶことができないものであり、ルンの場合は、家業が農家だったこともあり、農業系の学校を卒業していた。だから、この国の農業技術を学んで、身につけた知識や技能を祖国で活かしたいと考え、この国へやってきた。その際、両親はかなりの額の借金をした。親戚から借りるだけでは足りず、銀行や業者から借金をしたらしい。そんなこともあり、ルンは必ずや先進の技術を身につけ、親に、祖国に恩返ししたいと考えていた。

 実習期間中は二十万円程度の給料も出るため、そこから生活費を引いた残りの額を全部国の家族へ送るつもりだった。少なくとも十万円は仕送りできる目算を立てていた。十万円といえば、ベトナムでは大金だ。

 技能実習は最長五年間、そして五年間仕送りを続ければ、借金は完済でき、農地を広げたり、機械を購入することもできるはずだった。

 しかし……希望を胸に、この国へ到着した瞬間、ルンは騙されたと悟った。

 いかにもといった風体の男たちが空港でルンたちを待ち構えていたのだ。国民性の違いがあるとはいえ、どこからどう見ても農業を教えてくれる人間でないことは明白だった。

 祖国を発つ前に色々と噂は聞いていた。技能実習生を食い物にするヤクザがいると。いや、ヤクザに限らない。日本の建設業や製造業、農業、漁業は特に人出不足だ。現場の過酷な作業を担う末端の作業員のなり手がいないため、外国人に頼らざるを得ない状況だ。だから、なんとかして外国人を確保しようとするのだが、それは簡単な話ではない。そこで、技能実習生に頼るのだが、とにかく労働力を確保することが目的のため、本来の目的である実習などそっちのけで、現場作業に従事させているのが現実だ。もちろん、まともに実習を行っている企業が大半なのだが……。

 一方、実習生は実習生で、技能の習得を目指している者がほとんどなのだが、中には、それよりも出稼ぎ感覚で、技能の習得よりも、とにかく稼げるだけ稼いで母国へ帰ろうという考え方の者も多い。日本で三年から五年働けば、母国で優雅な暮らしができるくらい稼げるからだ。

 もちろん、ルンの場合は前者だった。農家を営む両親を助けるため、日本の農業技術を学びたいという純粋な気持ちで来日した。ルンを日本にやるため、両親はあちらこちらに借金をし、送り出してくれたし、妹は、空港で泣きながらルンを見送ってくれた。

 ルンは、日本で必死に働いて、技術を習得し、故郷に錦を飾るつもりでやってきたが、その想いは見事に裏切られたのだ。

 ルンはサナに詫びた。何度も何度も謝った。

「ごめんなさい……わたしのために蹴られて……迷惑かけますから、出ていきます」

 ルンはダウンを着て立ち上がった。靴を持つ。

「待って、ルン。あいつら、あんたを探してるよ」

「……」

「日本のヤクザを甘くみたらあかん。あいつらはしつこくて執念深くて狡賢くて……それで、警察以上に人を見つけるのが上手」

「……でも、もし、見つかったら」

「大丈夫。あいつが来る時間は決まってるし、その時間だけ押入れに……あ、でも……仕事の時はどうしよう……」

 サナが俯く。さっきと同じように歯を食いしばっているようだった。

 ルンはすでに薄々気づいていた。サナの仕事に。まるで下着のような真っ赤なキャミソール。その下は……おそらく何も身に着けていない。外にいた時はこの上に真っ白なウールのコートを羽織っていた。

「やっぱり出ていくよ。ついさっき出会ったばかりのベトナム人にやさしくしてはダメ。危ないよ。また蹴られるよ」

「……もう慣れっこ。本当に今出ていったらダメだよ。あの田口って奴、普通じゃないから」

「……知ってる。わたしも何度も殴られて蹴られました」

「そう……」

 ルンは、日本に来てからのことをすべてサナに話した。

 サナが悔しそうに唇を噛む。

 ルンはサナの顔を見つめた。ルンと同い年だというが、幼い、少女のような顔立ちをしている。日本人は年齢より幼く見えるものなのだろうか。大きな目に小さな鼻、口は小さいが唇はぽってりしていて愛嬌があった。その唇を強く噛みしめ、サナはつらいことを思い出しているようだった。ルンの話を聞いて、つらい記憶が蘇ってきたのかもしれない。

 ルンは、もうこれ以上、サナのつらい顔を見ていたくなかった。だから言った。

「やっぱり行きます。わたしは、田口が言ったように、クスリを売っている悪い人間です。サナさんに迷惑かけると思う」

 サナの両手がルンの腕を掴む。

「待って、ルン。何か事情があるんでしょ?」

「え? じじょう?」

「そう、事情。ルンには、薬物を売らなければならない理由があるんでしょ? ヤマト会に脅されているとか……」

「……」

「わたしもそう。親が、ヤマト会が経営している会社からお金を借りて……そのお金を返すために、こんなことをしているの」

 サナはそう言うや、それまでより強い力でルンの腕を掴んできた。

「……」

「わたしもルンも、敵は同じヤマト会。これも何かの縁。ここにいて。ずっとでなくていい。ここにいてほしい。それに……とにかく、しばらくは外に出ない方がいい。ヤクザは本当に怖いから」

 ルンは頷き、折りたたんだ布団の上に腰を下ろした。

 サナが話し始めた。

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