二十一

「教えてほしいか? しゃあない、教えたろ。おまえの弟な、金持ちのジジイにもらわれたんや。それも、そのジジイの性の奴隷としてな。その事実をおまえの両親は知ってしもたんや」

「……」

 一瞬、意味がわからなかった。だが、それを理解した瞬間、サナは咄嗟に田口に向かっていた。

 しかし、即座に蹴り倒される。顎を蹴られ、意識が遠のきそうになる。それでもサナは髪を振り乱し、田口に掴みかかった。だが、簡単に投げ飛ばされ、頭をサッカーボールのように蹴り上げられた。

 意識が朦朧とする。

「このブス! マジで殺すぞ。おまえには保険金たっぷり掛けてるんや。いつでも殺せるんや」

「殺せ! 殺したらええ! 殺せ!」

「ええんか? 死んだら、おまえの両親はまた悲しむことになるんとちゃうか?」

「……」

「まだ十代半ばの息子がジジイのオモチャにされた上、娘にも先立たれたら、親はどう思う? ああ、母親はボケとるから何も感じひんか」

 田口が喉の奥で笑う。不快だった。

「ボケた嫁ハンを施設に入れたいみたいやけど、おまえの父親にそんな金ないわな。金を稼ぐ算段もない。コック崩れは憐れやな。だから、おまえが稼げ」

「……」

「そんな目で睨むな。そうそう、親を恨むなよ。おまえの両親は、息子のこともあったけど、でも、自分たちが死ねば、おまえも解放されると思ったんやろ。だから心中したんや。まあ、それは失敗に終わったけどな。人間、楽な方に逃げたらアカンのや」

「……」

「ええか、おまえはまだまだ稼がなアカン。だから、今度来るまでに、体を綺麗にしとけよ。心配せんでも、客は俺が連れてきたる。感謝せえよ!」

 田口が出ていく。今日も土足のままだった。

 もう、睨みつける気力すらなかった。

 何をする気も起きず、サナは久しぶりに押入れに向かった。

 いつもの下段ではなく、ルンが過ごした上段に、よじ登るようにして転がり込む。気のせいだろうが、ルンの匂いを感じた。

 と、何かが背中に触れた。カサカサと音がする。

 サナは体を起こした。

「!」

 テレビドラマや映画でよく見る白い粉が透明の小袋に入っていた。パケと呼ばれるやつか。全部で四つあった。

 ルンが落としていったのだろう。

 サナはそれを拾い上げると、まるで何かに導かれるように封を切り、人差し指に粉をつけると、それを舐めた。

「……」

 特に何も起こらなかったし、何の味もしなかった。

 でも、サナは、その白い粉にルンを感じ、時々それを舐めるようになっていった。


 サナの部屋に灯りがともっていた。それを確認したルンは、あたりを警戒しながらそっと近づいていった。

 ヤマト会の人間の姿はない。隣の敏江の部屋の電気がついているのが気になったが、ルンは意を決して鉄階段を昇った。

 サナの部屋の前まで進む。ルンは、ドアをノックした。隣室の敏江を意識し、囁くように言う。

「サナ……いますか? サナ……」

 と、次の瞬間、敏江の部屋のドアが開いた。じっと息を殺して生きている敏江には小声でもよく聞こえるようだ。

「あ! ベトナム人!」

 廊下に出てきた敏江が叫ぶ。はじめてその姿を見た。小柄で太っていた。醜かった。容姿ではなく、心の醜さが表情に現れていた。

 ルンは敏江を突き飛ばし、階段を駆け降りた。

「あ、逃げた! ベトナム人が逃げていく!」

 敏江のだみ声が降ってくる。

 ルンは逃げた。

 敏江のことだ、すぐに田口に連絡するだろう。そうなると、サナがひどい目に遭うかもしれない。

「ごめんなさい……サナ」

 ルンは心の中で何度も頭を下げ、路地を縫うように走った。


 もう大丈夫だろうというところまで来た時、ルンはふと思い直した。いっそ、サナを連れ出せばよかったと。二人でどこかへ行き、新しい生活を始めるのだ。

 だが、すぐにルンは自らの考えを否定した。

 家族を失ったルンは、文字どおり失うものはない。しかし、サナは違う。サナが逃げ出したら、サナの家族がひどい目に遭うだろう。

 路地裏の片隅で、ルンは冬の空を見上げ、溜息をついた。真っ白な息が星空へ向かいかけ、そして消えた。やけに星が綺麗だった。それが腹立たしい。

 ルンは、いつものように地下鉄出口の踊り場へ行き、眠ろうとした。

 だが、うつらうつらするものの、寒さのせいですぐに目が覚めてしまう。裏返したダウンを抱き締めるようにして寒さに耐えていると、頭上から声が降ってきた。尖った声だった。

「おい、そこで何してるんや!」

 ルンは咄嗟に立ち上がっていた。警察かヤマト会だと思ったのだ。もしそうなら、逃げなければならない。

 男は、階段の上で、まるで通せんぼをするかのように立ち塞がっていた。スーツの上にウールのロングコートを羽織り、銀縁の眼鏡をかけている。下から見上げる格好だが、それを差し引いても、かなりの長身だということがわかる。

 一見サラリーマン風だが、醸し出している雰囲気が、ヤマト会の面々と似ている。ただ、似ているが、少し違うような気もした。

「何しとんねん。風邪ひくぞ」

 尖った声が、少しだけ丸みを帯びた。だが、ルンは油断しなかった。他人を信用してはいけない。この国に来て最初に学んだことだ。

 ルンは日本語がわからないフリをすることにした。ベトナム語で呟きながら、男の脇を擦り抜けようとする。

 だが、腕を掴まれていた。

「おい、待て!」

 ルンは男の手を振り払おうとした。逃げなければ、やはりこの男はヤクザだ、そう思った。しかし、男は細身の割に力があった。振り解けない。

「待て、落ち着け。忘れもんや」

 男が顎をしゃくる。

 ルンは振り向き、踊り場を見た。

「!」

 覚醒剤が入ったパケが落ちていた。

「し、知らない」

 咄嗟にとぼけようとした。

「ほう、日本語喋れるやないか」

 男はそう言いながら、ルンの腕を一層強い力で掴むと、ルンを引き摺るようにしながら踊り場まで降りていき、パケを拾い上げた。

「おもろそうなもん持ってるやないか。おまえのやろ?」

 ルンは激しく首を左右に振った。

「ふん、心配するな。俺は警察でも麻取でもない」

「……」

「おまえ、ヤマト会の売り子か?」

「……」

 ルンは黙って下を向いた。

「俺は狭間組の岬いう者や。ちょっと話聞かせてくれ」

 岬と名乗った男は、ルンの腕から手を離した。逃げることができる、一瞬ルンはそう思った。だが、足が動かなかった。それは恐怖のためではなく、もうこれ以上逃げるのはしんどいと思ったからだ。

 岬が歩き始める。ルンは岬についていった。 

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