二十二

 幻聴か。突然ルンの声が聞こえてきた。自分を呼ぶ声。まさか……。

 あれ以来……つまり、白い粉が入ったパケを見つけてから、その粉を少しずつ舐め続けているうち、最初は吐き気がし、次に頭痛がし、そしてその次はやけに視界が明るくなった。疲れや空腹も感じなくなった。痛みも同様だ。喉の渇きだけはひどくなった。水道の水をいくら飲んでも渇きは癒えず、かわりに幻覚を見るようになった。見るのは両親でも弟の姿でもなく、ルンのそれだった。ルンが迎えに来てくれる、そんなシーンばかりだった。

 そして今、ルンの声が聞こえてきた。幻覚の次は幻聴か……そう思った瞬間、それは敏江のものに変わった。やはり幻聴か……と思ったが、敏江はベトナム人とか、逃げたとか叫んでいる。そして走り去る足音。

 ルン? まさか……。

 ルンが来るわけがない。ルンはサナが裏切ったと思っているはず。ヤマト会に自分を売ったと考えているはず。だから、ルンが来てくれるわけなどない。

 と、乱暴にドアが開かれた。敏江。

「あんた、まだあのベトナム人とつながってたんやな。田口に報告したるからな!」

 吐き捨てるように言うと、敏江は乱暴にドアを閉めた。そしてしばらくすると誰かと話し始めた。田口と電話で話しているのだろう。

 もう、どうでもよかった。弟が売られ、母親は認知症になった。もう、いつ死んでもいい。サナは押入れに向かい、白い粉を舐めた。

「!」

 ルンが目の前に現れる。

「ルン……どこかへ……どこでもいい……連れていって……」

 ルンに手を伸ばす。もう少しでルンに手が届く……と思った瞬間、ルンは離れていく。その繰り返しだった。気がつけば、玄関まで来ていた。

 そうか、ルンが自分をどこかへ連れていってくれるのか、そう思い、思わず笑顔になる。

 ルンが玄関ドアを開けてくれる。サナはルンに向かって手を伸ばした。

「ルン……」

 だが、次の瞬間、それは田口の姿に変わった。

「おまえ、まだあのベトナム人とつながってたんか。マジで殺すぞ」

 と、サナの腹を蹴ってきた。一発で吹っ飛んだが、やはり痛みは感じなかった。すぐに立ち上がり、田口に笑いかける。

 これは幻覚だ。田口はすぐにルンに姿を変える、そしてわたしをどこか新しい世界へ連れていってくれる、サナはそう信じていた。

「おまえ……シャブ食ってるな?」

 そう言うや、田口はサナを押しのけ、押入れに向かった。そしてパケを見つけるや、ニヤリと笑い、

「あのベトナム人の忘れ物やな。おい、これは元々うちのもんや。それに無断で手を出したおまえはただの盗っ人や。盗んだ分体で稼いでもらうで」

 と下卑た目を向けてきた。

 ルンじゃない。ルンじゃないの?

「シャブを食った奴とヤルのが好きな男はゴマンとおるからな。おまけにその歯抜けや。今まで以上に稼げるぞ」

 その言葉どおり、田口は次から次へと客を連れてきた。どいつもこいつも薬物中毒で、サナの局部にシャブを擦りつけ、何時間もサナを抱いた。サナに寝る時間はなかった。朝も昼も夜も夜中も、男を受け入れた。疲れもせず、睡魔が襲ってくることもなかった。

 客を取る度、田口がシャブをくれた。サナはどんどん思考力が失われていくことを自覚しながらも、シャブから離れられなかった。

  

 岬と名乗った男は、ルンをおでん屋に連れていった。「福」という屋号だった。

 カウンターしかない小さな店。少し太った女性が一人、カウンターの中にいる。店主なのだろう。

「あれ、珍しい、若い人と一緒やなんて!」

 目を丸くして店主が大きな声を出す。笑顔だ。愛嬌たっぷりだ。

「ん? もしかして外国の人?」

「はい、ベトナム人です」

「へえ……」

「貸し切りにさせてほしい」

 岬が言うと、「ええよ、もう店じまいの時間やし。もう誰も来ないやろ」と、店主が暖簾をしまう。

「さあ、話してもらおか」

「……」

 この期に及んで、ルンはまだ迷っていた。岬は狭間組の組員だと名乗った。狭間組は、ヤマト会とは敵対する組織だ。ということは、ルンの力になってくれるかもしれない。

 しかし、ルンはヤクザが信用できなかった。

 店主が黙ったままコップにコーラを注いでくれる。

「すみません」

 ルンは頭を下げた。

「そういう時は、『ありがとう』って言うんやで」

「ああ、そうですね。ありがとうございます」 

 ルンは再び丁寧に頭を下げた。

「日本語上手やね。流暢やわ。こっちの言うこともちゃんと理解してるし」

 店主は満面の笑みだ。ルンもつられてつい笑顔になる。

「いただきます。コーラなんて久しぶりです」

 水以外の飲み物を口にするのは本当に久しぶりだった。久々の炭酸に喉が驚く。ゲップが出た。

「おなか空いてるんちゃう?」

 そう言いながら、店主は皿に、大根、ごぼう天、たまごを入れて出してくれた。

「さあ、食べて。ベトナムの人のお口に合うかどうかわからんけど」

「……」

 目の前の皿を見つめる。湯気が立って、目の前が霞んだ。いや、違う、涙のせいだった。

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