十二


 ルンは、出ていくと言った。天井裏でサナと田口との会話をすべて聞いていたのだ。

 サナにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。それに、お金を稼いで家族に仕送りをしないといけない。

「いや! ルン、ここにいて!」

 サナがルンのダウンジャケットの裾にしがみつき、土下座のような体勢でルンを見上げてくる。

 ルンはサナの手を握りしめ、言った。

「迷惑かけてしまうね。サナがひどい目にあうね……だから、出ていく」

「いや!」

 サナは泣いてルンの腰に縋ってきた。

 ルンは戸惑った。恋人でも何でもないルンに対し、サナがこれほどの反応を見せるとは思いもしなかったのだ。

「サナ……」

「大丈夫。わたしは大丈夫だから、ここにいて。ううん、わたしが大丈夫なのは、ルンがいてくれるから……だから……ルンがいなくなったら、わたし、ダメになる」

 サナが立ち上がり、唇を求めてきた。ルンの体を抱き寄せる。

 ルンは突然のサナの行動に驚き、思わずサナを突き飛ばしていた。

 サナが仕事用の布団に倒れ込む。

「ご、ごめんなさい」

 ルンは詫びたが、その場を動けなかった。

 サナが自嘲気味に笑う。

「わたしの方こそごめん。嫌よね……わたしのような汚れた……穢れた女とキスするのは」

「……ち、違います。そんなことないね。びっくりしただけ……」

「わたし……お客とはキスはしないから……だから何だって言われたら、何も言い返せないけど……でも……お金のために愛のないセックスしている女だけど……セックスはできても、キスはできない……」

「……」

 ルンはサナに近づき、手を取って立ち上がらせた。そして、サナを抱き寄せた。サナの体は痩せ細っていた。それがやけに悲しかった。

「ルン……わたし……汚れているよ……」

「ぜんぜん……汚れてなんていないです……穢れてないです……汚くないです……」

 ルンはそう言うと、自分より少しだけ背が高いサナを見上げ、そしてそっと唇を合わせた。

 サナが口を開く。サナの息遣いを感じながら、ルンは舌を入れた。舌が絡み合う。ルンはサナの舌を吸った。サナがルンの唇を軽く噛む。

 サナの涙がルンの頬を伝った。ルンもまた泣いていた。


 昨夜、ルンとキスをした。ルンは最初驚いたようだったが、サナを受け容れてくれた。

 サナのことを汚くない、穢れていないと言ってくれた。本心だと思いたい。

 ルンとの距離は近くなり、心にあたたかいものが広がったが、だからといって何かが劇的に変わることもないような気がしていた。

 相変わらずの闇だ。

 わたしは今日も見知らぬ男に股を開き、ルンは天井裏で息を潜めている。これがいつまで続くのか……わたしの場合はいつまでも闇だ。

 でも、ルンは違う。ベトナムには家族がいて、ルンの仕送りや、ルンの帰りを待っている。ルンは、パスポートもビザもヤマト会に取り上げられたと言っていたが、警察なのか、役所なのか、どこかはわからないが、事情を話せば何とかなるかもしれない。

 いずれにせよ、ルンはいつまでもここにはいないだろう。昨夜も自ら出ていくと言った。

 そして、いつまでもここにいられるわけもないと、サナは理解していた。敏江のこともある。田口は毎日集金に来る。そういう部分での危険もあった。

 ルンとどこかで一緒に暮らせれば……人生をやり直せるのだろうか……そこまで考えた時、サナは現実を思い出した。

 わたしには両親と弟がいる。三人に仕送りしなければならない。両親は脳に障害があるため働けないが、弟はあと数年もすれば働ける年齢になる。そうなると少しは楽になるだろうか。この生活から抜け出せるだろうか。

 いや、希望を持つのはやめよう。希望の欠片すら奪い取られて久しい。希望を持てば持つほど、それが裏切られた時の反動が大きい。

 それとも……ルンが希望になってくれるだろうか。

 客が来た。お金を受け取り、サナはキャミソールを脱いだ。客の服を脱がせる。客の鼻息が荒くなる。介護用の体拭きで客の体を拭こうとしたが、客が拒み、襲いかかってきた。

「ちょ、ちょっと!」

 コンドームを装着する間も、陰部にローションを塗る余裕もなく、男がいきなり貫いてきた。

「い、痛い! た、助けて、ルン!」

 思わず叫んでいた。

「ん? ルンって誰や! 彼氏か!」

 男が変に興奮し、腰使いが激しくなる。

「この売女が! 生意気に彼氏なんかおるんか! ヒモか、そいつは! クソが! 俺の方がええやろ! なあ? 俺に乗り換えんかい! ヒモにしてくれ! ああっ!」

 男は自分の言葉に興奮し、あっという間に射精してしまった。

 サナはピルを飲んでいるため、いや、ヤマト会に飲まされているため、妊娠の心配はなかったが、客の体液が膣内に入ってくるのは不快で鳥肌が立った。それに、病気をうつされる心配もある。だから、ピルを飲んでいるとはいえ、客にはコンドームの装着を義務づけている。客が拒んだ時は、ヤマト会の存在をちらつかせ、翻意させるのだが、今回のようなケースもたまにある。

 男はあっという間に終えてしまったことで、バツが悪かったのか、そそくさと出ていった。サナは体を拭くと、キャミソールを身に着けた。

 ルンが押入れから出てくる。

「大丈夫?」

「……うん」

 泣くつもりなどなかったのに、ルンの顔を見た瞬間、涙が溢れてきた。

「泣きたい時は泣いたらいいです。ベトナムでは男も女もそうするね」

「うん……ありがとう」

 ルンが抱き寄せてくれた。汚い男に犯されたばかりのサナを嫌がることなく抱き締めてくれた。

 ルンとどこかへ行きたい。強くそう思った。

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