十三
サナは今日も仕事をしている。大変な仕事だと思う。ベトナムにも同じような仕事がある。幼い子供を売買する組織もある。少女売春もある。多くは貧困が原因だ。借金のカタに娘を差し出す親もいる。
貧困層は弱者だ。悪だと言ってもいい。貧困層から搾取する者たちが悪なのではない。まずそこに貧困があることが悪なのだ。
それが証拠に、警察も国も弱者を守ってくれない。弱者を虐げる者を取り締まらず、悪いのは弱者であり貧困だと言っているも同然だ。それは、ベトナムも日本も同じだ。
貧困は悪なのだ。
だからといって、サナを悪だとは思わない。ヤマト会が悪だ。
サナは、ルンに聞かれたくないのか、声を必死に押し殺しているようだ。ルンは天井裏にいるが、それでも声が聞こえてくるので、耳を塞いでいる。サナが聞かれたくないなら、ルンも聞かないでおこうと思うからだ。
ただ、昨日の客はひどかった。耳を塞いでいても、客の怒号やサナの悲鳴が聞こえてきた。サナはルンに助けを求めていた。ルンは天井裏から押入れに移動し、襖を少しだけ開けた。
仕事ではなかった。サナは犯されていた。暴力だった。
助けなければと思った。だが、ルンは……怖れていた。いや、別に相手の男が怖かったわけではない。
ベトナムでも体の小さなルンは、いじめっ子たちの標的になったが、その度相手に向かっていった。力では敵わず、返り討ちに遭うのが常だったが、それでも少しずついじめは減っていった。
だから、サナを助けに入り、たとえ相手に返り討ちに遭ったとしても、暴行を止めることはできただろう。だが、サナを助けることよりも、保身に走ってしまった自分がいた。
客とトラブルを起こしたら、サナに迷惑をかけるだけでなく、ヤマト会が飛んでくるだろう。それを怖れてしまい、動けなかった。
客が帰った後、サナの元へ向かったが、サナはどう思っただろう。ルンの胸に飛び込んできてくれたが、ルンが押入れから覗き見のようなことをしていたことに気づいているはずだ。軽蔑されただろうか。
サナに嫌われたくないという想いがあった。別れが近いことは自覚しているが、サナと離れたくないという気持ちが強かった。サナに惹かれていた。最初は妹のような存在だと感じていたが、今は一人の女性として見ている。
サナはルンを匿ってくれ、世話を焼いてくれている。感謝してもしきれない。もし、サナの世話にならなかったら、とっくにヤマト会に捕捉されていたことだろう。
一歩も外へ出ることができないため、不自由を強いられているが、贅沢は言えない。だが、もうそろそろ外へ出ても大丈夫なような気がしていた。
「ルン……」
サナが呼んでいる。囁くような声。隣室の敏江を警戒してのことだろう。
ルンは天井裏から部屋に移動した。
「ルン……」
サナが抱きついてくる。最近の、客が帰った後の儀式のようなものだ。サナが、客に抱かれた自分は汚い、穢れているとあまりに言うものだから、ルンが提案したのだ。
「わたしは、サナを汚いとも穢れているとも思っていないよ。ただ、サナがそう考えているなら、お客が帰った後、わたしが抱き締めます。そうすることで、サナの気持ちが少しでも落ち着くなら、わたしはそうします」
ルンの提案に、サナは涙を流した。「ありがとう、ルン。ありがとう……」。
最近、サナはよく泣く。そして泣きながらキスをする。
そんなに経験が豊富というわけじゃないから、ルンもよくわからないが、サナとのキスは、たとえば恋人同士がするであろう情熱的なそれとは異なり、敢えてたとえるなら、まるで手をつなぐようなそれだった。
弱い者同士が、あるいは寂しい者たちが心のつながりを求めるように、傷を舐め合うように、連帯感を持つために、手をつなぐようにキスをしている、そんな印象だった。
それだけに、離れがたくなっていた。そして、もしサナとどこか遠くまで逃げれば、明るい未来が待っていそうな気がする。
錯覚だろうか。それはただの現実逃避なのだろうか。
手を離すように、唇をそっと離す。
目に涙を溜めたままのサナが上目遣いでルンを見る。
「どこかへ一緒に行きたいね……」
ルンが言うと、サナは元々大きな目をさらに見開き、
「行きたい……ルンとどこか遠くで一緒に暮らしたい」
と訴えかけるように言った。
だが、笑顔はなかった。あきらめのような、いや、悟りにも似た悲しい色が双眸に拡がっている。
やはり、現実逃避でしかないのだ。ルンには守るべき家族がベトナムにいる。サナも同様だ。サナも、家族を守るため、こんな仕事をしているのだ。何もかも捨てて、どこかへ逃げるわけにはいかない。
それでもサナは言った。
「わたしと結婚したら……ルンはずっとこの国にいられるよ」
「……」
確かにそうだ。日本人と結婚したら、永住権を得られる。
サナと結婚……いや、日本人と結婚して、この国に残ることなど考えたことはなかった。
農業技術を学び、それを祖国に持ち帰ることだけを考えて来日した。だが、それは断たれてしまった。農業をあきらめ、何か仕事を見つけ、家族に仕送りをして借金を返していけば、サナとの結婚も可能かもしれない。
いや、ダメだ。家業はどうする? 両親はまだ五十代だが、体もそう丈夫ではなく、いつまでも畑仕事はできない。妹もまだ小さい。家族を、畑を守らなければならない。
畑を担保にして借金をしていることをルンは知っていた。それくらい、両親はルンが技能実習生として日本の農業技術を持ち帰ることに期待を寄せているのだ。
間もなく三年だ。技能実習は最大五年だが、三年で一旦帰国することになっている。ルンが農業技術を身につけていると信じて疑わない家族は、ルンの帰国を心待ちにしていることだろう。
ヤマト会に騙され、ルンが犯罪に手を染めていると知ったら、家族はどう思うだろう。
帰らなければ……帰って本当のことを話さなければ……そしてそのためには、パスポートやビザを取り戻さなければ……。
「ルン? どうしたの?」
「……いえ、何でもないです」
「嫌なの?」
「えっ?」
「わたしと結婚するのが嫌なの?」
「……いえ……あの……」
「……そうよね……わたしも無理なことはわかってる。ルンはわたしと違って、ベトナムに帰れば家族が待っているし、ヤマト会に騙されて技能実習はうまくいかなかったけど、でも、家業がなくなったわけじゃない」
サナが寂しそうに笑う。自嘲気味でもあった。
「サナだって家族が……」
「違う! ルンとは違う! わたしの場合は……いつ借金がなくなるかもわからないし、もし仮になくなっても……汚れた体になってしまったし……将来に希望はない……」
「……そんなこと……」
「そうなのよ! わたしなんか、生きていても……死にたい……もう死にたい」
再びサナが涙を流す。
「サナ……ダメだよ……死ぬなんて……」
「……ルンはいいよ。売人をしていたことだって、事情を知ればみんな同情してくれるし、誰も責める人なんていない……」
「……」
「だから、大使館に相談して……ベトナムに帰ればいい……」
本音だった。ルンとはいつまでもここで一緒に暮らせるわけなどないのだ。どこか遠くへ一緒に行けるわけもない。別れは必ずやってくる。
「サナ……」
次の瞬間、甲高い音が響いてきた。外階段を乱暴な足取りで昇ってくる。田口だ。
ルンは咄嗟に押入れに飛び込み、天井裏へよじ登った。
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