十一

 ここ数日、ルンが考え事をする時間が増えたように感じていた。サナは不安になった。ルンがどこかへ行ってしまいそうな気がしたのだ。

 サナが仕事をしている間、ルンは押入れにいる。いや、最近は天井裏にいることが多いらしい。ルンは、サナがこんな仕事をしているのが嫌なのかもしれない。サナだって嫌だった。でも、仕方がない。それなら、ルンに出ていってもらえばいいのかもしれないが、それは何より辛かった。

 客を取っていない時間は、テレビをつけ、隣の敏江に聞こえないようにしながらルンと話す。食事を摂り、おやつを食べる。サナもルンもお酒は飲めなかった。飲めなかったし、そこまでの金銭的余裕がなかった。だから、いつもコンビニ弁当や総菜を食べ、飲み物は水道水だった。

 本当は、何か料理をした方が安上がりだし、ルンにも喜んでもらえる気がしたが、サナは料理ができなくなっていた。かつては料理が好きだった。父親から教えてもらったこともある。しかし、料理の腕前が素晴らしかった父親が飲食店の経営に失敗し、店や家を取られ、路頭に迷ったことから、料理自体にアレルギーを感じるようになったのだった。

 そういう話をルンにすると、

「それでは、わたしがベトナム料理を振る舞いましょうか?」

 と言ってくれた。ベトナム料理なんて食べたことがなかったし、どんなものかもわからなかったけど、すごく興味があったし、ルンが作ってくれるなら食べたいと思ったが自重した。

 ここへ来てから、一度も料理などしたことがないのに、もし突然料理などを始めたら、絶対に隣の敏江は怪しむはずだ。ただでさえ、サナが銭湯に行っている間、ドアをノックしてきたとルンが言っていた。ルンの作った料理を食べたかったが、敏江に対する警戒心から自重することにした。

 ルンは、ベトナムの話をよくしてくれた。サナにとって自分の故郷であるミナミの地は、もう思い出したくない場所になってしまったが、ルンにとってのベトナムは、大切な故郷であり、心の拠り所なのだろう。ルンの話を聞くうち、一緒にベトナムに行きたいという想いに包まれる。だが、すぐに否定する。家族はどうするのだ。

 ルンは、サナのことを気遣ってか、自分の家族の話はあまりしない。両親と妹がいるということくらいしか知らない。でも、きっといい家族なんだろうと思う。あちこちから借金をして、ルンを日本へ送り出してくれたのだから。ルンが日本の農業技術を学び、それをベトナムへ持ち帰り、みんなで農業に勤しむという夢を抱いていたはずだ。いや、ルンの家族は今もその夢を信じていることだろう。

 それだけに、ルンを騙したヤマト会が許せなかった。そしてヤマト会のことを考えると、憂鬱になる。

 まだ、客に抱かれている時の方がいい。何も考えなくていいから。だから、客と客の隙間時間が一番辛かった。色々と考えてしまい、どんどん沈んでいくのだ。

 だが、ルンがここに来てからというもの、その隙間時間が満たされるようになった。サナはルンにベトナムの話をねだった。ルンは喜んで話してくれた。サナは、決して実現することのない、ルンとのベトナム行きを想像し、胸を躍らせた。

 そして、今日もルンにベトナムの話をねだっていると、鉄階段が甲高く悲鳴を上げた。

 いつもと違う時間に田口がやってきたのだ。鉄階段を叩きつけるように踏みつけ上がってくる。サナは、あわててルンに目で合図した。悟ったルンは頷き、押入れへ飛び込むと、天井裏へとまるで猿のように駆け上がった。いつしか、天井裏へ行く動きに慣れていた。それを確認すると、サナは襖を閉めた。

 ほぼ同時にドアが叩かれる。

「開けんかい! なに鍵閉めとんじゃ!」

 サナはゆっくり玄関へ向かい、解錠した。ドアが乱暴に開かれ、田口が飛び込んでくる。部屋を見渡し、トイレのドアを開け、そして押入れの襖を乱暴に開けた。座布団があるだけで何もない。ルンの私物は何もない。なぜなら、ルンは常にダウンジャケットを着こみ、靴はあらかじめ天井裏に隠しているからだ。

「なによ、一体!」

 サナが田口の注意を逸らすように大声を出すと、「じゃかましい! でかい声出すな!」と振り向きざまに腹を蹴られた。倒れ、咳き込んでいると、 

「どうも、おまえが一人で生活していないような気がするっていうタレコミがあってな」

 と田口は笑った。

「ヒソヒソ話す声が聞こえてきたり、おまえが出したゴミ袋の中から、男物の下着のパッケージが出てきたそうや」

「ヒソヒソ声は電話や。下着はお客へのプレゼントや」

「ふん、まあええ。せやけど、もし、うちから逃げてるベトナム人を匿ってたら、おまえ、殺すぞ。生命保険にも入ってるからな」

「……」

 敏江だ。敏江がチクったのだ。気をつけていたつもりなのに。それにしても、ゴミ袋まで漁るなんて……よほど敏江の恨みを買っているのだろう。敏江は恨みを晴らしたいと思っている。復讐したいと考えているのだ。

「ほんまに知らんな? ベトナム人を匿ってたら、ただではすまんぞ。ベトナム人とおまえの両方を殺すからな」

 田口が出ていく。田口が土足だったことに気づいた。塩を撒きたかったが、その塩すらなかった。惨めさが募った。

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