七
サナは銭湯だけが楽しみだった。通天閣の下にある小さな銭湯。一日の疲れと体の汚れ、心の穢れを洗い流してくれるようで、銭湯だけがサナの唯一の心のオアシスだった。
ルンには申し訳ないが、今日も銭湯に来た。
手早く入浴を済ませようと急いで体を洗っていると、背中に声がかかった。
「久しぶりやな、あんた」
顔の石鹸を洗い流しながら振り向く。
「!」
この町へ出てきた頃に、同じようにこの銭湯で声をかけてきた女性だった。確か、フクと名乗ったと思う。
「えらい痣つくって……大丈夫か?」
サナは曖昧に頷くと、髪の毛を洗い始めた。
「なんかあったら、いつでもおいでや。そこのおでん屋やから」
サナはもう振り返ることなく、髪の毛を洗い続けた。
三年前、この町へやって来た時も、サナは田口に殴られ、蹴られた。接客態度が悪いと言われた。その時も痣をつくった体でこの銭湯へ来た。そこではじめてフクと出会った。
フクは心配してくれ、声をかけてくれた。
ふくよかな体、そしてやさしい笑顔で語りかけてくれ、サナはフクに母性を感じ、思わず胸に飛び込みたくなった。だが、自重した。「大丈夫です」とだけ言って、フクから離れた。
その後も、何度かこの銭湯で顔を合わせた。その度、フクは色々と声をかけてくれた。おでんを食べにおいでとも言ってくれた。何でも相談してとも。
何度も心が揺らいだ。フクなら色々と相談に乗ってくれそうな気がした。彼女の言葉に甘えていいような気もした。しかし、サナはその気持ちを押し殺した。
相談には乗ってくれるだろう。親身になって話を聞いてくれるかもしれない。でも、根本的には誰もサナをその境遇から救い出してはくれない。それがわかっていたから、だからサナはフクから距離を置くため、銭湯に行く時間をずらした。そうしないと、決意が揺らぎ、フクに甘えてしまいそうだったからだ。何かを期待し、そしてそれが叶わなかった時の反動というか、ショックは計り知れない。
それでも時々、町で顔を見かけることがあった。フクが営むおでん屋「福」もすぐにわかった。オリンピックハウスの前で客に声をかけているところをフクに見られたこともあった。
フクは声こそかけてこなかったが、心配そうな目でサナを見ていた。サナはそれを同情からくるものだと思った。嫌だった。だからサナはフクに気づかないフリをした。
それから数年、フクとは顔を合わすことがなかったが、今日はルンのこともあり、いつもと違う時間に来たため、数年ぶりにフクに会ってしまったのだ。
シャンプーを洗い流したサナは、フクの様子をそっと窺った。フクは湯舟につかり、老婆と談笑していた。サナはフクに気づかれないよう、脱衣所へ移動した。
慌てて服を身に着けると、コンビニで弁当を二人分買い、ルンの待つアパートへ帰った。
寒い。十二月だから当然だ。だが、今日からはルンがいる。そう考えるだけで心が少しだけ温かくなるのだった。
自分でも不思議だった。
フクに対しては、甘えてはいけない、頼ってはいけない、万が一裏切られた時のショックが大きいと思い、近づかないようにしたが、ルンに対しては違った。
縁もゆかりもない異国の人間。今日出会ったばかりの相手。他人との関わりを拒否していたはずなのに、前から必死に走ってくるルンを見た瞬間、助けたいと思った。助けなければと思った。自分より小柄で痩せっぽちのルンが、まるで弟のように見えたこともあった。よく見れば、似ても似つかないのに、弟のように守ってやらなければならない存在に思えたのだ。母性だろうか。
同い年だと知って驚いた。短いながら真っ黒な髪の毛、色白の童顔のルンは中性的だった。少女のようでもあった。
ヤマト会に騙され、ドラッグの売買に手を染めたルン。状況こそ違えど、親近感を覚えた。仲間意識のような心強さを感じた。もしかしたら、ルンとなら現状を打破できるかもしれないと思った。
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