もう家族とは三年も会っていない。倉庫は取り壊されたと聞いた。だから、どこにいるかすらわからない。借金がいくら残っているのかさえ教えてもらえない。あまりしつこく尋ねると、家族を殺すと脅される。逃げたくても逃げられなかった。

 アパートが見えてくる。民泊の届けを出しているらしいが、ただのアパートだ。オリンピックハウス……東京オリンピックにあやかったのだろうか。二階の向かって一番左端の部屋。電気は消えている。ルンは息を殺してじっとサナを待っているはずだ。

 ルンと一緒に銭湯に行く姿を想像した。でも、しばらくは無理だろう。ヤマト会に見つかったら、二人ともひどい目に遭わされる。サナの家族も殺されるかもしれない。だから、ルンには申し訳ないが、しばらくは介護用の体拭きで我慢してもらおう。

 ドアを開け、電気をつける。ルンが押入れからそっと顔を出した。

「ただいま」

「おかえり」

 ルンが出てくる。

「大丈夫やった?」

「はい。でも、誰かがドアをノックしました。『誰かいる?』って」

「えっ?」

「ヤマト会じゃないね。女の人。多分、隣の部屋の人」

「……ああ、敏江さんね」

 隣には三十代と思しき女性が住んでいる。敏江は、サナと同じようにウリをしていたが、醜い容姿のため、客が全く取れなかった。

 敏江は、サナに嫉妬し、部屋の前にゴミを捨てたり、夜中じゅう大きな音を立てたり、壁をドンドンと叩いたりと、様々な嫌がらせをしてきた。サナは神経が疲弊し、不眠症になり、ヤマト会に相談した。

 本当は相談などしたくなかったのだが、売上が下がったことを田口に詰められたため、敏江からの嫌がらせを告白したのだ。

 嫌がらせはすぐに止んだ。ヤマト会は敏江にヤキを入れた。相当ひどい目に遭わされたようで、敏江は顔が倍に腫れ、四十度以上の熱が数日続いたそうだ。

 別にヤマト会はサナを守ってくれたわけではなく、売上を守っただけの話だ。

 敏江は、それを機にウリをあきらめ、月に一度の割合で国道に飛び出し、当たり屋をしている。田口が言うには、敏江は雪だるまみたいに太っているから、多少激しく車と衝突しても平気だろうということだ。

「ずっと寝てるのよ、敏江さん。だから、物音には敏感。わたしが銭湯に行っていることも知っているから、その時間に物音がしたから確認しに来たんやろうね」

「そう……じゃあ、この話し声も危ないね」

「テレビをつけてれば大丈夫」

 サナはリモコンのスイッチを押した。画面にはサナと同年代の女性グループが歌う姿が映し出された。すぐにチャンネルを変える。華やかな世界が嫌いだった。特に、キラキラしている同世代の若者たちの姿を見るのが嫌だった。

 十代の頃はそういう世界に憧れたこともある。だが、今は全くの別世界にいるため、憧れどころか、過剰に飾られた異世界だという印象しかなく、吐き気すら催すようになっていた。だからあまりテレビは見ない。見てもニュースくらいだ。ニュースは割と不幸な事柄を取り上げることが多いからだ。

 自分でも卑屈になっていると思う。自覚はあった。

「サナさん、どうしました?」

「ううん、何でもない。あ、サナでいいよ」

「……サナ……本当に大丈夫?」

「うん……昨日までは独りぼっちだったけど、今日からはルンがいるから大丈夫」

「……うん」

 見つめ合う。

 ルンが照れて先に目を逸らした。

「なんか疲れたから寝ようか」

「……うん」

「いつも押入れで寝てるの。この布団は仕事用だから、これで寝る気がしなくて……」

 ルンが頷く。

 サナは立ち上がり、押入れへ向かった。さっきまでルンが潜んでいた押入れ。

「ルンは上で寝て。ルンの方が小柄だし、身軽でしょ」

 サナは笑いながら、座布団を上段に二枚並べた。下段には掛布団。サナは掛布団の上で寝るつもりだった。そして、それぞれには一枚ずつの毛布。

「少し寒いかも。でも、意外と押入れって暖かいから大丈夫やと思う」

 ルンは頷いた。

 押入れの向こうは隣の部屋だ。敏江が壁に耳をつけて息を潜めているかもしれない。だから押入れでは会話は厳禁だ。ルンに言うと、ルンは黙って頷いた。

 ルンが身軽に上段に飛び乗る。

 やはり、弟のように見えた。幼い頃、身軽だった弟は、木登りやジャングルジム、のぼり棒が得意だった。

 サナも押入れに入り、掛布団の上に寝転ぶ。いつもの座布団とは感触が全く異なり、少し体が痛いが、すぐに慣れるだろう。薄い毛布一枚ではやはり寒かったが、ルンの存在のおかげか、心は温かかった。

 目を閉じる。元々寝つきは悪い方だ。どれだけ客を取っても、どれだけ田口に殴られ、蹴られても、体の疲弊と反比例するかのように、なかなか睡魔は訪れてくれない。それは今夜も同じだったが、いつもとは次元が違った。ルンがいるからだ。そしてルンもまた、眠れないのか、上で何度も寝返りを打っていた。

 ルンに話しかけたかったが、自重した。敏江が間違いなく息を潜めて様子を窺っている。

 敏江は、いつかの仕返しのために、サナの粗探しが生きがいだ。だから、スキを見せるわけにはいかない。

 どれくらい経っただろう、ルンの寝息が聞こえてきた。と思った時には、サナも眠りに落ちていた。

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