覚悟していたが、ルンにとっては地獄の時間だった。

 サナの日常。そこに紛れ込んだのだから、すべて受け入れざるを得ない。

 押入れの中。サナの喘ぎ声が聞こえてくる。最初は耳を塞いでいたが、情けない話、興味の方が勝り、耳から手を離していた。そして、一度声を聞くと、次はその姿を見たくなった。

 薄く襖を開ける。布団の上、一糸纏わぬ姿のサナに覆いかぶさる醜く太った中年男。激しく腰を動かすたび、サナはそれに合わせて声を出すが、サナの目は虚ろに天井を、いや、そのもっと先を見ていた。いや違う、何も見ていなかった。

 ルンの下半身は一瞬反応しかけたが、すぐに死んだようになった。サナの死んだような目が心に痛かったのだ。

 下衆のような興味を持った自分が恥ずかしかった。ルンは襖を閉じ、耳を塞いだ。

 客は結構なペースで訪れた。リピーターが多いようだ。サナが客引きに行かずとも、次から次へと客がドアをノックした。隣の敏江が嫉妬するのも頷ける。サナは、二十五歳には見えない幼い容姿で、体つきも少女のそれのようだ。だが、それが逆に人気の元になっているのか、大人の女性に相手にされなかったり、気後れするオタクのような客が多いとサナは言っていた。

 五千円という価格設定も、客を呼ぶ要素のひとつになっているのだろうが、だが、安いだけでは客は来ない。隣の敏江がいい例だ。やはりサナの魅力だ。

 ベトナム人のルンから見ても、サナは美形だということはわかった。幼さが残る顔立ちだが、時折射す影が、表情を大人びて見せる。なんとも言えない魅力があった。

 サナは色々と世話を焼いてくれた。必ず三食食べさせてくれたし、外に出られない、つまり銭湯にも行けないルンが、自分で拭けない背中などの箇所をサナは介護用の体拭きで拭いてくれた。

 田口は毎日集金に来た。大体来る時間が決まっているため、その時間になると、ルンは天井裏に隠れる。押入れの上の天板は常に開けており、そこから天井裏へ行けるのだ。

 夜は押入れの上下に分かれて眠った。隣の敏江が気になるので、会話はしない。時々、下の段からサナの手が伸びてくることがあった。ルンは黙ったままその手を握り返した。

 そんな時は満たされた気分になるのだが、いつまでもここにいるわけにはいかないことも、ルン自身理解していた。

 故郷の両親や妹のことが心配だった。今月は仕送りができそうにない。大丈夫だろうか。借金が返せなくなり、大事な畑を取られたりしないだろうか。チャンのことも気になった。チャンはどうしているのだろうか。

 サナの手が伸びてくる。ルンはそれを握り返した。妹のことを思い出す。妹のアンはルンより十歳下だからまだ十五歳だ。元気にしているのだろうか。

 不意にホームシックに駆られる。日本に来て、ヤマト会の出迎えを受けた時、騙されたと思った。その当初は、毎日のように故郷に帰りたいと思っていた。だが、日常の繰り返しの中、そういった想いを抱くことはなくなっていった。あきらめの感情からだろう。だから、久しぶりに覚える想いだ。

 サナは、ルンと手をつなぐと、安心するのか、すぐに眠ってしまう。サナの手から力が抜け、指が開く。ルンはそっとサナの手を下ろしてやる。幸せな時間だ。

 だが、時々、そんなささやかな落ち着く時間を打ち破る輩が現れる。客だ。酔っ払いの常連客には時間の概念などないようで、夜中だろうが早朝だろうがお構いなしにドアをノックする。

 サナは以前、夜中の客を無視したことがあるそうだ。その日は疲れ切っていて、睡魔が襲ってきていたため、相手にしなかった。すると翌朝、田口がやってきて、半殺しの目に遭わされたらしい。以来、どんな時間に客が来ても相手にしないわけにはいかなくなった。

 生理だろうが、風邪をひいて熱があろうが関係なかった。客の性癖は千差万別で、生理だったり、熱があったり、田口にボコボコにされて全身痣や傷だらけであっても、それを好む客がいた。だから、一年三百六十五日、二十四時間仕事の準備をしていなければならないようだ。

 唯一の安息の時間である銭湯も、サナは時間をかけずに帰ってくる。かといって四六時中客が押し寄せるというわけでもない。暇な時は暇なのだ。天候や時期によっては坊主の時もある。それだけに、しんどいだろうなとルンは思った。気だけは常に張っていなければならないからだ。

 そんな状況でも、サナはルンにやさしかった。ずっといてほしいとも言ってくれた。

 だが、そんなわけにもいかない。

 つらい別れの時が迫っていることにルンは気づいていた。

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