十九
二、三日、いや、もっとだろうか、日付の感覚がなかったが、ずっと大嫌いな仕事用の布団に突っ伏していた。正確には、トイレと、水を飲みに行く時以外は、だ。
人間、水だけでも数日は生きられると聞いたことがあるが、そのとおりだった。最初はその水さえも体が受けつけず、いや、水を欲しいとも思わなかった。それでも時間が経つにつれ、喉が渇き、体が水を欲し、同時に田口に殴られた箇所が痛み始めた。全身の感覚が元に戻りつつあるということか。
しかし、何をする気も起きなかった。客は時々顔を見せたが、サナの状態を見るとすぐにドアを閉めた。
あれ以来、田口は顔を見せない。鉄階段を乱暴に昇ってくる足音が聞こえてくるので、他の部屋には集金に来ているのだろうが、サナは仕事ができる状態ではないとわかっているのだろう。ただ、敏江は毎日のようにやって来ては、嫌味をぶつけるだけぶつけていった。腹立たしさはあったが、憐れだという想いもあった。最初こそ、睨みつけたりしたが、その後は完全に無視することにしていた。ルンのことを田口にチクったことに関して怒りはあったが、それは自分が敏江を甘く見ていたせいだし、敏江に報復をしたりしたら、自分も敏江と同じレベルにまで落ちてしまう。
と、鉄階段を叩きつけるような足音が聞こえてきた。田口だ。今日もここには来ないだろうなとぼんやり考えていたが、予想に反し、足音が近づいてきた。
乱暴にドアが開けられる。
「汚い顔やな。おまけに歯抜けか。まあええ。それはそれで武器になる。歯抜けにしゃぶられたらたまらんからな」
サナは寝転んだまま、田口を睨みつけた。
田口がいつものように土足で上がってくる。
「おい、起きろ!」
乱暴にサナの長い髪を掴む。
「い、痛い!」
田口の手に爪を立てると、腹を蹴られた。
「舐めるなよ、コラ! 殺すぞ!」
田口が手の甲を舐めながら、蛇のような目でサナを見下ろしてくる。
「まあええ。今日はおまえにいい知らせを持ってきたんや」
「……」
「おまえの弟な、ええとこの家にもらわれたぞ」
「……」
「金持ちの家や。金持ちの家の子になったんや」
「……ほんまに?」
「ああ、ほんまや。よかったな、金食い虫が一人減って」
「……」
弟が金持ちの家の子になったのなら、それはそれで嬉しかった。自分の分まで幸せになってほしいと思う。両親も喜んでいることだろう。
「また来る。体を綺麗に洗っとけ。敏江のような当たり屋になりたくなかったらな」
高笑いしながら田口が出ていく。
サナはその背中を睨みつけた。
昼間は、外国人の観光客で賑わう新世界に紛れ込んだ。オリンピックハウスは新世界にあり、危険だったが、そもそもこの新世界はヤマト会とは別の組織である狭間組、それもヤマト会と敵対する組の縄張りであり、そういう意味では安心だった。
なぜオリンピックハウスでヤマト会のシノギが許されているのか、サナに訊ねたことがある。サナは答えた。オリンピックハウスはあくまで民泊であり、ヤマト会の息がかかっているとはいえ、一応一般人であるオーナーが運営しており、売春もそこに泊まっている者の自由恋愛だという発想だから、警察も、敵対する狭間組も手を出せないのだと。あまりよくわからなかったが、ルンは頷いておいた。
とにかく、オリンピックハウスに近づかない限り、新世界の町は安全だということだ。それに、まさか新世界にルンがいるなどと田口も考えないだろう。
それでもさすがに、まわりが明るい時間帯には近づけなかった。田口が一日一度集金のために姿を見せるからだ。だから夜になるのを待って、ルンはオリンピックハウスに向かった。もちろん、サナのことが心配だったからだ。
だが、いつ行ってもサナの部屋の灯りは消えていた。部屋の前まで行き、ドアをノックしたかったが、隣の敏江に見つかるかもしれない。見つかったら厄介だ。ヤマト会に連絡され、サナに迷惑がかかる。
だからルンは、路地の入口あたりに身を潜め、二十メートルほど先のオリンピックハウスを眺めることしかできなかった。
通天閣のネオンがギリギリ届くおでん屋【番外編】 登美丘 丈 @tommyjoe
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