十八
ドアがノックされる。
ルンか……そう思ってしまう自分が腹立たしい。ルンが戻ってくるわけなどないのに……。ルンは裏切ったサナを恨んでいるだろう。
ドアに鍵はかかっていない、と思う。田口に半殺しの目に遭わされて以来、寝たきり状態だ。大嫌いな仕事用の布団の上にまるで覆いかぶさるようにして……。
田口に暴行を受けた時は、こんなに血が出たら死んでしまうのではないかと思うほど出血したが、死ななかった。それは畳の上でどす黒く乾いている。
熱も出た。だが、動けなかった。水を飲みたかったが、洗面所まで歩けなかった。それでも死ななかった。熱は勝手に下がっていった。
痛みはなかった。いや、ただ麻痺しているだけだ。それとも、脳がサナを守るために痛みを感じなくしてくれているのか。
ドアが執拗にノックされる。
客か。客なら、ノックもせずにドアを開けるか、申し訳程度に軽くドアを叩いた後、勝手に開けて入ってくるはずだ。実際、田口にこんな目に遭わされた後、何人も客が訪れた。そして、誰もがサナの状態を見て、すごすごと逃げ出した。
サナは体を起こした。口の中に異物があった。吐き出す。歯だった。
次の瞬間、ドアが開く。敏江だった。
破顔というのは、こういう表情を言うのだろう。満面の笑みで、しかし、見下すようにサナを見ていた。
「ひどい顔やね。そんな顔してたら、客が寄りつかんやろ? 可哀想に。もし良かったら、当たり屋のやり方指南しよか?」
黙って敏江を睨みつける。
「何を睨んでるの! 感じ悪いな。あんた、自分の立場わかってるの? あんたは今や二軍や。うちの方が稼いでるわ! あんたなんか戦力外や! 死ね! 死ね! 死ね!」
敏江が乱暴にドアを閉める。
殺してやりたい、そう思った。ルンのことをヤマト会にチクったのは敏江だ。
敏江の、サナへの恨みは半端じゃないのだと改めて思った。執念とでも言おうか。
同時に、敏江のことを舐め、甘く見ていた自分に腹が立った。後悔先に立たずだ。サナが銭湯に行って留守にしている間、敏江が訪ねてきたことをルンから聞いた時、もっと警戒するべきだった。
自分のミスだ。自分のミスだが、敏江を殺したい、そう思った。これも逆恨みなのだろうか。
サナは再び仕事用の布団に突っ伏した。あれだけ嫌いだった仕事用の布団。もう、どうでもよかった。汚れているのは布団ではなく、自分自身なのだから……。
これからどうしたらいいのか、ルンはわからなかった。
雪がちらつく街を朝まで歩き続けた。すでにボロボロだったスニーカーから水が染み込んでくる。だが、冷たさは感じなかった。
空腹も、喉の渇きも、寒さも、眠気も、足の痛みも、そして疲れも感じなかった。どんな感覚も今のルンにはなかった。
感情だけがあった。
一体、どうすればよかったのだ。どう動けば正解だったのだ。
この国へ来て、騙されたと悟った時に逃げ出せばよかったのか。帰国すればよかったのか。
いや、ダメだ。そんなことをしたら、この国へ来るためにつくった借金を返せなくなり、家や畑を即座に取られてしまっただろう。
実際、ヤマト会には脅されていた。逃げたら家も畑もなくなるぞと。そして、それだけでは足りないから、家族に生命保険を掛けて殺すぞ、とも。
だから、ルンは今まで売人を続けてきたのだ。
しかし、自分は逃げてしまった。その結果、家族と、そしてチャンの家族も犠牲にしてしまった。
何度も警察に相談に行こうと考えた。チャンともそういう話をした。しかし、警察は信用できなかった。なぜなら、ヤマト会とズブズブの関係を築いているからだ。
大使館に行くことを考えないでもなかった。だが、ほぼ監視されている状況の中、なかなか身動きが取れなかった。もちろん、家族が危険な目に遭うかもしれないという恐怖もあった。
なぜ、あの時逃げたのか……。日本に来て三年、借金はかなり減っているはずだという気持ちもあったし、警察に捕まったらどうなってしまうのかという不安もあった。
いや、そんな理屈ではなかった。咄嗟に逃げていた。自由への渇望。自由になりたいという想いがそうさせたのだ。それは幻覚に過ぎなかったが……。
ルンは歩き続けた。いつの間にか雪はやみ、太陽が真上にまで昇っていた。と、スマートフォンが震える。電源を落とすのを忘れていた。液晶にはヤマト会の文字。あわてて電源を落とす。
そうだ、ヤマト会はルンを捜している。技能実習制度を食い物にしてきたヤマト会を告発することのできる生きた証拠であるルンを殺そうとしているはずだ。黄色いダウンを裏返しに着ているため、色という部分では目立たないが、それでもリバーシブルタイプではないため、妙だ。どこかで上着を調達しないと。
いや、もうどうでもいいような気もする。家族が殺されたのだ。今更ベトナムに帰っても仕方ない。
家族の待つ天国へ行こうか……いや、違法薬物の売人などをしていた自分のような人間が天国になど行けるわけがない。
いずれにせよ、生きていても仕方がない。ただ、同じ死ぬにしても、ヤマト会に殺されるのは真っ平だ。
それにしても……ここはどこだ?
一晩中歩き続けたため、結構遠くまで来たと思っていたが、地下鉄出口の表示には、「動物園前」とあった。
思わず苦笑していた。真っすぐ歩いているつもりが、結局ぐるぐるまわっていただけで、新世界の近くにまで戻ってきていたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます