十七

 恐る恐る聞く。

 田口の声が鼓膜に反響する。

「おい、コラ! なに逃げとんねん! シャブも持ち逃げしやがって、盗っ人が! まあええ、それはくれてやる。そのかわり、おまえの家族には死んでもらったからな。チャンの家族もな。かわいそうに、チャンはおまえの被害者や。チャンはポリ公から逃げてうちへ戻ってきたのに、おまえが戻ってこんから、連帯責任で、家族には死んでもらった。だから、もう、おまえは戻ってこんでいい。好きにしろ」

「!」

 まさか……殺すなんて……嘘だと思った。ルンをおびき寄せる罠かと思った。だが、そうではないだろう。おびき寄せるなら、死んでもらったとは言わず、死んでもらうぞと言うはずだ。

 ベトナムには、ヤマト会の息がかかったヤクザまがいの人間がいるのだろう。

 考えてみれば、ベトナム側の実習生送り出し機関や監理団体を抱き込むには、現地に仲間が必要なはずだ。その仲間が、家族を殺したのか……。

 いや……まさか、殺すまではしないと思うが……ルンは家族の死を信じたくない一心で、田口の言葉を否定しようとした。

 そして、チャンだ。チャンは警官から逃げることができたようだ。一度着信があったが、あれは警官がルンを捕まえるため、チャンにかけさせたのだと考えていたが、どうやら違うようだ。

 チャンは逃げずにヤマト会に戻ったのだ。

 なぜだ……なぜ、警官から逃げて、ヤマト会に戻ったのだ。いや、それともチャンの判断が正常なのか。

 それでも、警察かヤマト会のどちらかに捕まるのなら、ルンなら警察を選ぶ。

 田口は言った。チャンは、ルンが逃げ回っているせいで、家族を失ったのだと。

 それが本当なら、チャンに合わせる顔がない。

「!」

 もしかしたら、チャンからの着信は、ルンに戻ってきてほしいという懇願の電話だったのではないか。家族が殺される、それを防ぐために戻ってきてくれという連絡だったのでは……。だが、ルンはスマホの電源を落としており、コールバックもしなかった。

 本当なのか。本当にルンの家族もチャンのそれも殺されたのか。

 もし、本当なら……。

 気が狂いそうになる。そして、真相を知りたいルンは、衝動的に父親に電話していた。

 予想に反し、すぐにつながる。安心したのも束の間、知らない男の声が鼓膜を震わせる。日本語だった。それも流暢な、明らかに日本人のそれ。

「ルンか? おまえの親も妹も事故で死んだぞ。事故でな。残念だ。借金のカタに、保険金はもらっておく」

 それだけ言うや、電話は切れた。

「……」

 絶望だけが目の前に広がる。絶望を色にたとえると、真っ黒ではなく、ダークグレーだった。ダークグレーのキャンバスに一筋の傷が生まれ、その傷から真っ赤な鮮血が流れ出す。

 サナのやさしさに涙したルンだったが、家族の死を確信した今、不思議と涙は出てこなかった。

 あまりに非現実的すぎるからか。

 不意に恐怖が背筋を這い上がってきた。

 思わず振り向く。だが、トイレの個室だ。誰がいるわけでもない。しかし、背後から襲われるかもしれないという恐怖心が湧いてきた。妄想は暴走する。恐怖が確信に変わった。

 殺される。きっと自分も殺される。

 ベトナムの家族を殺したくらいだ。ルンのことも殺すに違いない。ルンにもきっと保険金はかけられている。

 息苦しくなり、個室を出た。洗面所に人影。足が竦む。だが、どこからどう見ても学生だ。ほっと息を吐き、学生と入れ替わるように洗面所へ行き、顔を洗った。何度も何度も顔を洗った。鏡に洗った顔を映すと、一気に歳を取ったように見えた。自分でもゾッとした。

 同時に、黄色いダウンは目立ちすぎると思った。ヤマト会も黄色いダウンを追っていることだろう。みたび個室に入り脱ぐ。リバーシブルではないが、裏地は茶色なので、裏返して着ることにする。と、ポケットから覚醒剤のパケが落ちた。

 個室だから誰の目もないのに、慌てて拾い上げる。数が足りない。ポケットを探るが入っていない。

 パケは全部で七つあったはずだ。だが、三つ足りない。落としたのか。サナの家の押入れか、あるいは天井裏かもしれない。

 もう必要ない。トイレに流そうと考えたが、思いとどまった。諸刃の剣だが、もしかしたらいざという時に身を守る武器になるかもしれない。ポケットに戻す。

 トイレを出る。途端、喧騒が耳に入り、幸せそうな日本人たちの様子が嫌でも視界と心を支配した。

 エスカレーターに乗ろうとし、踵を返す。とてもじゃないが、彼らと同じ空間にはいられなかった。ここは、自分には不似合いな場所だ。

 誘導灯に導かれるように、ルンは非常口へと進み、一段ずつ階段を降り始めた。まるで、地獄へのカウントダウンを自らの足で進めているような錯覚に陥る。

 デパートから外へ出たら出たで、ジングルベルの音色が聞こえてきて、ルンを一層孤独感が包んだ。

 ベトナム人のほとんどは仏教徒だが、クリスマスを盛大に祝う文化がある。ルンの家も、貧しいながらもクリスマスになると無理をして外食したりケーキを買ってお祝いしたものだ。家族の誕生日も同様だ。

 もう、二度と家族でクリスマスを祝うことも、誕生日祝いをすることもないのだ。

 雪が降り始める。ベトナムはめったに雪は降らない。だから、生まれてはじめての雪だ。

 だが、今はそんな感慨にふける余裕はルンにはなかった。

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