十六

 今日が何曜日なのかもわからなかったが、デパートの混雑ぶりを見る限り、多分日曜日なのだろう。

 若いカップルや、家族連れ、熟年夫婦、幼い子を抱く母親の姿があった。女子高生のグループもいる。誰もかれもが幸せそうだった。

 ルンは、エスカレーターに乗り、一階から十階まで昇った。擦れ違う人たちはやはり幸せそうだった。笑顔の人もいればそうでない人もいるが、こういう場所でゆったりと時間を過ごすことができる人こそが、幸せな人間なのだとルンは思った。

 ルンは、一階から十階まで、何度も何度も往復した。そうすれば、自分もまわりに馴染むことができるかもしれないと思ったが、逆に疎外感を覚えるだけだった。

 自分だけが取り残されたような気分になり、誰もがルンの噂話をしているような錯覚に陥った。心拍数が上がる。

 たまらずトイレに駆け込み、個室に入る。便座の蓋を閉め、その上に座ると、少しだけ落ち着いた。

 一旦個室を出て、洗面所へ行き、水を飲んだ。

 鏡に映る自分の姿。ひどい表情をしていた。ベトナムを出た三年前とは別人のようなやつれ方だった。とても二十五歳には見えない。サナは、ルンのことを幼く見えると言った。弟のようだと。確かに童顔だから、初対面の人はそういう感想を持つのかもしれない。しかし、物心ついた頃から己の顔を見続けているルンは、自身がやつれている、いや、心身ともに疲弊している老人のように見えた。

「!」

 サナもそうかもしれない。

 ルンも、サナが幼く見えたし、妹のように感じた。だが、サナはサナで、自分の顔を見続けてきただけに、もしかしたら疲弊した老婆のような印象を抱いていたのかもしれない。

 サナ……大丈夫だろうか。ルンの居場所を教えたとはいえ、ルンに逃げられた田口にひどい目に遭わされていないだろうか。そして、約束など守るわけなどないヤマト会は、サナを解放などしないはずだ。サナは絶望しているに違いない。

 後悔に胸が痛んだ。

 ルンは、サナと一緒にどこかへ行きたいと言った。それに対しサナは、自分と結婚したら、ずっとこの国にいられると答えた。サナがそう言った時、ルンはベトナムの家族のことが脳裏に浮かんだ。黙り込むルンに、サナは突き放すようにベトナムに帰れと言い放った。

「!」

 そうだ。サナが、田口にルンの居場所を教えたのは、ルンを裏切ったのではなく、踏ん切りをつけるためだ。サナとルン、それぞれの気持ちに。

 サナは、ルンが故郷のベトナムの家族のことを想い焦がれていることに気づいていた。だから、突き放すことを言ったし、田口に居場所を教えたのだ。そして、サナは、ルンが逃げきれることを確信していた。なぜなら、そういう時のために、あらかじめ屋根を突き破ることのできる場所を教えてくれていたからだ。

 サナ……。

 ルンは再び個室に入った。

 便座の蓋に腰を下ろした途端、不意に涙が溢れてきた。ルンは自分でも驚いていた。無意識に涙が流れてくるなんて、はじめてのことだ。ルンは戸惑いながらも、涙を拭えずにいた。

 サナは、自らの身を危険に晒してまで、ルンを決断させようとしたのだ。

「サナ……」

 呟くと、涙が一層溢れてきた。今度は涙を拭う。それでも涙はどんどん溢れ出てきた。

 そのたびにルンは涙を拭い、トイレットペーパーで鼻をかんだ。

 どれくらい時間が経っただろう。涙が枯れ果てたルンは、これからどうしようかと考え、そして、サナが大使館と言っていたことを思い出した。

 大使館に行けば、ベトナムに帰れるのだろうか。パスポートもなければビザもない。身分証明書もない。

 ポケットから財布を取り出す。所持金は二千円あまり。お金を稼ごうにも、身分証の類も持たない外国人に仕事などないだろう。

 やはり、大使館に行くべきだ。そこで全部話そう。正直に。技能実習生として来日したが、騙されたこと。パスポートもビザも取り上げられたこと。大麻の栽培や、薬物の売人をさせられていたこと……ヤマト会から逃げていること……。

 信じてくれるかどうかはわからないが、とにかく行ってみないことには……。行けば希望が顔を覗かせるかもしれない。

 ただ、その希望は、故郷に、家族の元に帰ることができるというものであって、家族が望んでいる、ルンが農業技術を習得して持ち帰るというそれを裏切ることになるのだが……。

 そうだ、家族に連絡しなければ。

 ルンは、久しぶりにスマホの電源を入れた。着信の通知。そのほとんどがヤマト会からのものだった。胃のあたりがキリキリ痛む。と、留守番電話に用件が吹き込まれていた。

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