十五
ルンは逃げた。
天井裏から屋根を突き破り、瓦の上を走り、隣のハイツの廊下に飛び移ったところで、サナの部屋から田口が出てきた。
「クソガキ、待て!」
田口が甲高い音を立てながら鉄階段を降り始める。ルンは田口より一足早く路上に駆け降りるや、路地を走り始めた。
久しぶりの外界。そして、しばらくまともに歩いていなかったのに、いきなり走りだしたため、何度も足がもつれそうになった。恐怖心のせいもあるだろう。それでも何とか転ばず、路地から路地を縫うように走り続けた。
サナに裏切られた……。
ショックだった。いや、ショックよりも、なぜだという疑問の方が大きかった。
まさか、田口の、「パスポートとビザを返す」という言葉を信じたわけではないだろう。それとも、ルンの居場所を教えたら解放してやるという言葉を信じたのか。
そうだ。自分のことになると、人は判断力を失う。サナは、自由になれるという誘惑に負け、田口にルンを売ったのだ。
気持ちは……わからないでもない。ルンがもし、すぐにベトナムに帰らせてやると言われたら、魂を売るかもしれない。田口の言うことなど信じられないと思っていても、甘い言葉を投げかけられたら、信じてみようと考えるかもしれない。
息が上がる。田口はすぐに追うのをあきらめたようで、ルンはそれに気づいていたが、走ることをやめられなかった。足を止めれば、背後から襲われそうな恐怖に苛まれていたのだ。
さすがに心臓が暴れだし、呼吸すらまともにできなくなってはじめてルンは走るのをやめた。だが、足は止めず、速足で歩く。背後が気になる。擦れ違う人間がすべてヤマト会の関係者に見えた。
俯き加減に歩く。気づけば天王寺まで来ていた。ターミナルの繁華街だ。あべのハルカスに向かう人波に紛れる。小柄なルンは、人混みに紛れやすい。自らを俯瞰的に見て、ルンは少しだけ安心し、デパートへと歩を進めた。
田口が何度も舌打ちをし、舌打ちの間に怒号をまぶしながら部屋に入ってきた。一転黙ったままサナを蹴りつけた。
蹴られると予測していただけに、サナは全身に力を入れ、田口の攻撃を受けた。それでも吹っ飛ぶ。
「このブス、ベトナム人を匿いやがって、ただですむと思うなよ」
「……居場所教えたでしょ! 約束どおり解放してよ」
「アホか。誰がそんな約束した!」
別にショックはなかった。最初から田口の言葉など信じていないからだ。ヤクザに約束という単語ほど似合わないものはない。
あきらめ、というより達観だ。
「ルンに、パスポートとビザを返すというのも嘘でしょ! 何が、ベトナムへ帰すよ!」
「じゃかましいわい、このボケ!」
田口がサナの長い髪を掴み、引き摺りまわす。プツ、プツという音がして、何本も髪の毛が抜けた。幼い頃から伸ばし続けてきた髪の毛。母がいつも髪を梳かしてくれた自慢の黒髪。頭皮ごと引き剥がされるのではないかという恐怖を覚えるほど、田口が力任せに髪を引っ張りまわし、そして腹を何度も蹴り上げてきた。
首が痛かった。頭が痛かった。腹が痛かった。胃の中のものを戻した。
「汚いのう、クソが!」
田口が髪から手を離して飛びのくや、今後は蹲るサナの背中を踏むように蹴り続けた。
吐瀉物の海に顔を突っ込む。田口はサナの後頭部を踏み躙った。
咳き込む。まさに吐瀉物の海で溺れ死にそうだった。
それでも田口は容赦なくサナの後頭部を踏みつけ続けた。
前歯が内側に折れ曲がる感触があり、そして呆気なく折れた。鼻の骨も折れているかもしれない。もはや痛みすらなかった。
あるのは、殺されるかもしれないという恐怖心だけだった。
一方で、サナの生命保険金をせしめるつもりなら、もっとマシな方法で殺すだろうという想いがあった。
いずれにせよ、痛みは感じなかった。いつからか、感じなくなった。これも達観のひとつなのだろうか。
ルンは無事逃げたようだ。逆上する田口の様子を見ればよくわかる。
よかった……ルン、あなたはちゃんと故郷の家族の元に帰ってね……。
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