第15話 ある婦人のハンカチーフ 3
「この辺りなのか?」
「うん、ジョーじいちゃんにそう聞いたから多分大丈夫!」
多分と言う響きに不安を抱きつつも、ジュリはエレナと共に歩く。
その隣をしっぽを振りながら、シリウスも歩みを進める。
エレナはまだジュリの手を離さない。
そろそろ、手を放してくれとジュリが言おうと思ったそのとき、男女の言い争う声が聞こえてきた。
「母さん、もう働きに出なくっていいって言ったろ? これからは僕が働くんだから大丈夫だよ」
「私は働くのが好きだし、今までの習慣を変えたくないのよ。仕事場には友人もいるわ。それにね、私には私の暮らしがあるの。あなたにはあなたの暮らしがあるでしょ?」
「……今日のところはもう帰るよ。寒くなってきたし、気をつけて」
その光景をこっそりと覗いていたジュリとエレナは顔を見合わせ、頷く。
声の主はローラ、若い男性は息子なのだろう。
親子喧嘩というほどのものではない。お互いを案ずる言葉のやりとりだ。
母を気遣う言葉をかけた青年は、肩を落として帰っていく。
そんな息子の背中をどこか寂し気な表情でローラは見つめていた。
「息子は別のところに住んでいるんだな」
「うん。職場に寮があるんだって」
何気なくお互いの顔を見ていた二人は、視線を再びローラへと戻す。
するとこちらを見つめ、手招きをしているローラがいた。
「……バレたな」
「でも、ほら仕方ないよ! あたし達、探偵じゃないし! とりあえず、行こう!」
微妙な言い訳をするエレナに手を引かれたまま、ローラの元へとジュリは歩いていくのだった。
「寒かったでしょ? 入って入って! 大きなわんちゃんも一緒でいいわよ!」
「犬ではなく……まぁ、いい。失礼する」
決して広くはない部屋だが、清潔で整っており、なにより温かみが感じられる。
小さな頃に息子が描いたであろう絵が棚に飾られていた。
椅子に座るよう二人に勧めたローラは、お茶の準備を始めた。
「さっき、息子と言い争っていたな」
「ジュリ! ……すみません! えっと、ローラさんにもう少し詳しいお話を伺いたくってここに来ちゃったら偶然、その……」
「ふふ、いいのよ。ごめんなさいね、驚いたでしょ?」
「いえ、その……はい」
ジュリとはまた少し違うが、正直に答えたエレナにローラはくすくすと笑う。
「あなたは何か焦っているのか?」
「――そうね。覚悟はしてたけど、今さらになって焦っているのかもしれないわ」
自身の体を抱くように両手を組んだローラは悲し気な表情になる。
そんな彼女の言葉をジュリもエレナも静かに待つ。
視線を息子が描いた絵に移しながら、ローラは口を開く。
「あの子はよく泣く子だったわ。転んだときは抱き上げて、涙を拭いてあげた。でもね、私はもうこれからのあの子の側にはいられない。あの子の汗も涙も拭ってはあげられないもの」
ローラの言葉にエレナは下を向く。
「だからこれからは汗も涙も自分で拭わなきゃ。そしたらあの子はまた歩き出せる。何度転んでもね。ハンカチはそのために贈るのよ」
そう言ってローラは二人を見て微笑む。
その表情はどこまでも穏やかなもので、もし祖母がいたらこのような雰囲気なのだろうかとジュリは思う。
だが、ハーフエルフの自分には母も祖母もないのだと、すぐにそんな考えを振り払う。ジュリには魔女がいた。それで十分なのだから。
ローラの言葉はまだ続く。
「時には喜びの涙もあるはずよ。見たかったわ、ずっと側で。ふふ、あの子が健やかに生きること以外、望まないとこの間二人に言ったのにね。さっき、あの子に会ってしまって、つい欲が出てしまったわ」
ジュリは小首を傾げ、なにかを尋ねようとしたが、そのときシュンシュンとお湯が沸いたことに気付いたローラが背中を向けた。
結局、それ以上は何も聞けず、二人はローラの家を後にするのだった。
赤く染まる街の中、ジュリもエレナも無言のままだ。ただ、お互いの手をぎゅっと握り合いながら、黙って森へと向かっていく。
そんな二人の繋いだ手を慰めるようにシリウスがちろりと舐めた。
*****
夜、温かなお茶を飲みながらジュリとエレナはどんな刺繍が良いのか話し合う。
シリウスは近くで丸くなり、その光景を眺めていた。
だが、ふと隣を見たジュリはエレナにいつもの元気がないことに気が付く。
「どうしたんだ?」
「――うん、あのね……」
ジュリの言葉にエレナはぽつりぽつりと自分の思いを語り出す。
エレナが話し出したのは自身の身の上話である。
十歳のとき、父と母を事故で亡くしたこと、そのあとはジョーやテッドの世話になりつつ、自分で働きだしたこと。
ジュリはその言葉をただじっと聞いている。
「急にいなくなっちゃったから、言いたいことも言えなかったの。だからね、もしあたしが息子さんの立場なら後悔すると思うんだ」
「ローラの病はそれほど重いということか?」
ジュリの問いかけに、エレナは目を伏せる。
「うん、多分そう。机の上に瓶がたくさんあったでしょ? あれね、昔近くに住んでいたおばあちゃんも飲んでたの。あれがないと節々痛むってお嫁さんが言ってた――そのあと、おばあちゃんは亡くなってしまったの」
ジュリはふぅと大きくため息をつく。
二人が受けた依頼はハンカチに刺繍を刺すこと、それ以上に踏み込んでいいものかという思いもあるのだ。
「だが、ローラの意志もあるだろう?」
「そうだけど、そうだけどさ。もしローラさんに何かあったら息子さんは傷付くよ。大事な人に大事なことを打ち明けて貰えなかったって」
ぽろぽろと涙を溢すエレナは人の痛みを自分のことのように感じられる素直な心があるのだろう。
ジュリは自身のハンカチでそっとその涙を拭いながら、ふと魔女のことを思いだす。魔女もこうして、ジュリの涙を拭ってくれたものだ。
おそらく、ローラも同じように息子を育ててきたのだろう。
汗も涙もこれから傍にいない自分には拭えない。
そんな自分の代わりのハンカチをローラは作りたいのだと悟る。
「――良い物を作ろう。それが今の私達に出来ることなんだから」
エレナの涙はまだ止まらない。
ジュリは魔女が自分にしてくれたように、エレナをそっと抱きしめた。
それから数日間、依頼の重要さを感じつつ、ジュリは刺繍を刺す。
刺繍の図案は、初めてローラとあったときに見たハンカチの刺繍の花のイメージを伝えると、エレナが描いてくれた。
同じ花ではあるが、ローラは満開に開いた花、ジュリが今刺しているのはつぼみの花だ。今、自分の道を歩き出す息子のための刺繍である――いつか歳を重ね、大輪の花を咲かせるようにとの意味合いだ。
ローラの願いである健やかに過ごせるようにとの願いを込めて、一針一針丁寧に刺していく。
最後の一針を刺すとハンカチが光輝き、付与が成功したことをジュリは感じる。
「あのね、ジュリ。ローラさんのところには二人で渡しに行こう! ここまで来るのもきっと大変だったと思うの」
「そうだな、私も同じ考えだ」
ジュリの言葉にエレナはぱっと表情を明るくする。
完成したハンカチを丁寧に折り畳み、包むと二人はシリウスと共にローラの元へと向かった。
「あら、まぁ! もう完成したのね。素敵……とても素敵だわ」
「あの! ローラさんに聞いてほしいことがあるんです……あたしの家族の話です。あたし、父さんと母さんを事故で失くしていて――」
礼を言い、感慨深そうにハンカチを撫でるローラにエレナが打ち明けたのは、自分の事情だ。
ローラにはローラの考えや思いがある。エレナもそれは重々承知の上で、自分の痛みを打ち明けたのだ。
拙いながらも懸命に打ち明けるエレナをローラはぎゅっと抱きしめた。
「傷付いたことを話すのはとても勇気がいることよ。ありがとう。素敵な刺繍だけじゃなく、ちゃんと私の悩みにも寄り添ってくれるのね――あなた達に依頼してよかったわ」
「えっと……あの……」
ローラに抱きしめられ、エレナは戸惑い、顔を赤くした。
その様子に笑いながらもローラはジュリを手招きする。首を振るジュリだが、ぐいと腕を引かれてローラに抱き締められた。
「本当、あなた達に依頼してよかったわ! あの子のためと思いながら、私は怖かったの。何かをあの子に残してあげなきゃ、そんな気持ちで日々を過ごしてきたわ。でも、思い出を残してあげる――そんな選択もあるのよね」
「ローラさん……!」
「…………そうか」
ぎゅっと抱きしめられることが久しぶりなジュリとエレナ、そしてローラもまたこんなふうに子どもを抱きしめるのは長年なかったことである。
そんな三人の後ろでシリウスは嬉しそうに尾を振るのであった。
半年後、テッドの情報でローラが亡くなったことをジュリとエレナは知ることになる。
息子に打ち明けた後、ローラと彼はどのような時間を過ごせたのだろう。
母から贈られたハンカチで汗を拭い、ときには涙を拭いて息子はこの広い空の下で働いている。
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