第3話 ジュリの悲しみ


「手芸とはこんなに疲れるものなのか!?」


 刺繍を少し刺しただけで、ジュリにはどっと疲れが出てくる。

 図案を描き、糸を刺していく。それだけだと考えていたのだが、集中するためかジュリは今までにない疲労感にぐったりとする。

 その様子に困ったように笑ってエレナはジュリを労う。


「うん、集中するからね。ジュリは初めてだもの。疲れるのも当然だよ。でもいいね、ジュリ上手になりそう! この配色とか可愛いよ」


 そう言ったエレナの手元にはジュリが刺した小さな花の刺繍のハンカチがある。

 テーブルに置かれたエレナが刺した同じ図案のハンカチとは雲泥の差に見えるのだが、嬉しそうなその様子にジュリとしてはくすぐったい思いになる。

 

「初めての刺繍だから貴重だね。飾っておく?」

「な! それを飾る気はない。使う気もないくらいだ」


 ジュリの言葉に目を瞬かせたエレナは、にこりと笑って自分が刺繍したハンカチをジュリに差し出す。

 その意味がわからず首を傾げるジュリに、エレナはぐいとハンカチを手渡した。


「交換しよう! 本当は記念にとっておいたほうがいいけど、使わないならあたしが使う。ジュリはこっちを使って? 二人で一緒に刺繍をした記念に交換しよう!」

「……いいのか? こっちは私のと違ってよく出来ているのに……」

「へへ。あたし、ジュリのやつ気に入っちゃったんだ!」


 気を遣ってくれたのかと思うジュリだが、エレナは大事そうにジュリが刺繍したハンカチを持っている。

 そのことに気付いたジュリは気恥ずかしさを覚えるが、同時に自身が受け入れられたような安心感を抱く。


「……まぁ、いい。好きにするといい」

「ありがとう! 大事にするね。ここにいられる時間の中で、またジュリに刺繍を教えるね。きっともっと上手になると思うんだ!」


 そう笑うエレナにジュリはなぜか胸がちくりと痛む。

 森を抜ける体力さえつけば、彼女はここを去っていく。それは当然のことで、当初はジュリもそれを望んでいたはずだ。

 しかし、エレナと過ごす日々の中、いつの間にか彼女はジュリの生活に溶け込んでいった。

 それが失われることに寂しさを感じる――そんな自分にジュリは戸惑う。


「まだまだお世話になっちゃうし、あたし刺繍を教えたり、力仕事もしたり、ジュリの役に立てるように頑張るね!」

「そ、そうか……。いや、力仕事はもう少し後にしろ。見ていて私がひやひやするんだ」

「なんで!? 平気だよ。あたし意外と力持ちだし」


 まだエレナはここにいるのだと、なぜかほっとするジュリだが力仕事という言葉はすぐに否定する。

 実際にエレナはジュリに運べない物も軽々と運び、小柄なジュリは助かることもあった。しかし、大柄でもないエレナが重い荷物を運ぶ姿を見るとジュリとしては落ち着かない。

 自分にエレナが刺繍を教えることで、それを見ずに済むのならそちらの方がいいとジュリは思えた。

 

「いや、いいよ。せっかくだから、ここにいる間はあなたに教えを乞うとしよう」

「次は……そうだな、大事な人に刺してあげたらいいよ。今は練習だけど、誰かのために刺すと気持ちも違うでしょ?」

「――私には大事な人などいないぞ」


 そう言って視線を逸らすジュリだが、今度はエレナが目を瞬かせる番だ。

 ここ数日の間でエレナはジュリの人となりを少しだけわかってきたように思う。

 素っ気ない態度をとる割に、ジュリはエレナに優しい。力仕事などエレナは苦ではない。今までそうして働いてきたためだ。

 だが、ジュリはまだ体調が整わないのではとエレナを気遣う。

 手芸が得意だというエレナにわざわざ道具を探し出し、与えてくれたのもジュリの配慮であろう。

 そもそも、エレナを自宅まで連れてきた時点でジュリの優しさはわかるのだ。


「いるじゃない、あの子が」


 そう言ったエレナの視線の先には、横たわる狼がいる。

 少し瘦せたように見える狼は静かに息をするだけで、こちらの様子に反応は見せない。その姿にジュリの心はちくりと痛む。

 しかし、エレナの言うとおり、誰かのために刺繍を刺すのも良いかと思えた。

 

「あの子か……」


 ジュリの言葉に反応したかのように、狼が閉じていた目を開き、彼女を見つめる。青いその瞳は理知的にも感じられ、まるでこちらの言葉を理解しているかのようだ。

 狼を見つめ返したジュリはその毛に合う色のスカーフはどうだろうと考える。三角形のスカーフに刺繍をワンポイントで刺すときっと、愛らしいのではと思ったのだ。


「……そうだな、ではあの子のために作ってみよう」


 その言葉に狼は再び瞼を閉じる。

 ジュリの言葉にエレナは自分のことのように嬉しそうに笑う。

 そんなエレナの様子がおかしくて、ジュリもまたくすりと笑うのだった。



*****


 静かな部屋の中、 雨が降る音だけが聞こえる。

 ちらりとエレナが視線を向けると集中して、刺繍を刺すジュリの姿がある。

 どうやら刺繍はジュリに合っていたようで、エレナが教えている時間以外にも刺繍を刺す姿をよく見かけた。

 小さなジュリが刺繍を刺している様子はなんとも微笑ましく、エレナは口元を緩める。すると、ジュリがハッとしたように視線を刺繍しているスカーフから、狼へと向ける。

 

「どうしたの? ジュリ」

「いや、あの子がどうしているのかと思ったんだ。最近、だいぶ痩せてきている。年齢を重ね、自然なことではあるのだが……」

「そっか……そうだよね。ずっと一緒に暮らしてきたんだもんね」

「私に魔力があればよかったのだがな……中途半端な私ではただ見守ることしかできないんだ」


 しかし、エレナはジュリのひたむきな姿を見てきている。

 体調が優れない狼の食事はもちろん、眠りやすいように狼のベッドを整え、労わるように体を撫でる。

 ここ数日、そんな姿を見てきたエレナには、ジュリがどれだけこの狼を大切に思っているか、その愛情が垣間見えた思いである。


「魔力のあるなしがどれだけ重要なのか、人間のあたしにはわからないところがあるよ。でもね、ジュリがその子のお世話を一生懸命していることは、魔法のあるなしじゃなく気持ちの問題だと思う。……ジュリは頑張ってるじゃない」


 今まで、そのように評価されたことがないジュリはエレナの言葉に戸惑う。自分一人で生きられるように魔女は多くのことをジュリに教えてくれた。

 それはジュリがハーフエルフという特殊な事情を抱えているためである。

 しかし、エレナはジュリがハーフエルフだということを特に気にした様子を見せない。

 今日以外にもエレナは些細なことでジュリを褒める。

 料理や家事、魔道具の扱いなど、ジュリにとっては出来て当然のことばかりだ。

 自分が何かをするたびにエレナが日々の努力を認めてくれる――そのことは今のジュリにとって小さな支えになっていた。


「――お茶を入れ替えよう。もう冷めてしまったからな」


 エレナの言葉になんと言って良いかわからないジュリは気恥ずかしさを誤魔化すために、キッチンへと向かう。

 

「君のご主人は素直じゃないよね」


 エレナの言葉に狼は閉じていた瞼を開けると、ジュリの後姿を見つめた。青い瞳でじっとジュリを見つめると、狼は静かにまた瞼を閉じる。

 エレナもまた小さなジュリの後姿を優しく見つめるのだった。

 

 夜も更けたが、ジュリはまだ刺繍に勤しんでいる。

 エレナに教わった通り、一針ずつ丁寧にだ。魔導ランプを横に置き、その灯りを頼りに刺し続ける。

 もっと明るい場所で刺したほうが良いのだろうが、少しずつ弱っていく狼から出来る限り離れたくはないのだ。

 深緑のスカーフに刺した刺繍も完成にほど近い。おそらくは今夜中に完成できるだろう。


「もうすぐ完成に近いな……お前にきっと似合うぞ」


 ジュリはそっと狼に触れる。ハリのある毛並みと温もりを感じつつ、ジュリは再び刺繍へと意識を向けるのだった。


*****


「ジュリ、大変! あの子の様子がおかしいの!」


 少し席を外していたジュリはその言葉に慌てて、エレナ達への元へと走る。

 エレナは苦し気に息をする狼の元にしゃがみ込み、不安そうにジュリを見つめた。

 ジュリも駆け寄り、狼にそっと触れる。大きくその体が上下することからも、苦しさがジュリに伝わってくる。

 その姿にジュリの紫の瞳からはぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていく。

 背中に温もりが感じられ、ジュリが振り向くとなぜかエレナも目を潤ませ、何かを差し出している。

 エレナが差し出したのはジュリは刺繍をしたスカーフだ。

 昨晩、完成したのだが一睡もせずに仕上げたため、ジュリに少し休むようにエレナが言ったその短い時間で狼の容体が急変したのだ。

 スカーフを受け取ったジュリは狼にそっとかける。


「お前がいてくれたから、私は今日まで生きてこられたんだ……」


 深い緑色のスカーフはジュリの想像通り、狼に良く似合う。

 だが、狼の呼吸は徐々に弱まっていく。

 全てのものには名前がある――この狼にも名はあるのだ。

 しかし、情が移れば失うときが辛い。そのため、ジュリは自身が付けた名を今まで口にすることはなかった。

 ジュリはそっと、ひそかに心の中では呼んでいた狼の名を口にした。


「いかないでくれ――シリウス」


 すの言葉に反応するようにスカーフの刺繍が光を放ち、狼の体ごと包み込む。

 幻想的で柔らかな光は慈しむように狼を包み、その様子をジュリもエレナも言葉を失い、ただただ見つめるのだった。



 

 

 

 

 

 

 

 


 

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