第7話 揺れる決断

夜が明けると同時に、救命センターには再び重い空気が漂い始めた。外から差し込む朝の光がやけにまぶしく、工藤美咲はその光を目にしながら、一晩中脳裏にこびりついていた篠原遼との会話を反芻していた。彼が感情を捨てるに至った理由――それは痛ましい過去に由来していたが、それでも工藤は自分がその道を選ぶべきだとは思えなかった。感情を捨てて、ただ冷静に命を救うだけが医師の正解ではない。彼女はその確信を持ちながら、これからどうすればいいのか模索していた。


そんなとき、救急車のサイレンが遠くから近づいてきた。いつもと同じ音だが、その音は工藤の胸をえぐるような感覚を与えた。心が落ち着かないまま、彼女はすぐに手術の準備に取り掛かった。今度の患者は、20代の男性。交通事故で運ばれてきたが、状態は極めて悪い。内臓出血があり、意識は不明瞭。複数の骨折と頭部外傷が確認され、すぐに手術が必要だ。


「緊急手術を行います!」


篠原の声が響く。工藤は一瞬、自分がまた篠原の指示に従い、冷静さを保ちながら動くことを不安に感じた。しかし、それ以上に患者の命が危機に瀕していることが頭を支配した。今は迷っている暇などない。工藤はその思いを押し込め、篠原の後ろに続いて手術室へ向かった。


手術は緊迫した状況で始まった。患者の状態は想像以上に悪く、出血が止まらない。工藤は必死に篠原の指示に従い、できる限り迅速に動いていたが、心の中には焦りが募っていた。心拍が急激に下がり、モニターの音が次第に不吉なリズムを刻み始めた。


「心拍数が低下しています!」


看護師の声が響き、工藤はその音にさらに動揺した。自分の手が震えていることに気付き、必死に冷静さを保とうとするが、うまくいかない。篠原は冷静に、次々と指示を出しながら手術を進めているが、工藤にはその姿があまりにも遠く感じられた。


「もう時間がない。今すぐ、これを……」


篠原が次の手術器具を指示した瞬間、工藤は思わず彼に叫んでいた。


「先生、本当にこれでいいんですか?」


手術台の上で命がかかっているにもかかわらず、その言葉は出てしまった。篠原は手を止め、工藤を鋭い目で見つめた。手術室の空気が一瞬凍りついたように静まり返る。その冷たい視線を受けながらも、工藤は一歩も引かずに篠原を見つめ返した。


「先生、私は……感情を捨てて、ただ冷静に動くことが正しいのか分からないんです。でも、この患者を救いたいんです。諦めたくないんです!」


彼女の声は震えていたが、そこには彼女自身の決意が込められていた。篠原はしばらく何も言わずに工藤を見つめていたが、やがて冷静な声で答えた。


「工藤、今は感情で動いている暇はない。命を救うためには、無駄な感情を排除しろ。そうしなければ、冷静な判断はできない。」


それでも、工藤は首を振った。篠原の言葉は分かっていた。彼の言っていることが理にかなっていることも理解している。それでも、彼女の中にある何かがそれを受け入れることを拒んでいた。


「でも、先生……感情を捨てることで、何か大事なものを失っているんじゃないですか?」


その問いに篠原の表情が一瞬だけ揺れた。だが、すぐに冷静さを取り戻し、彼は再び手術に集中し始めた。彼の手は無駄なく動き続け、患者の命を繋ぐために最善を尽くしていた。だが、その冷静さの裏に隠された何か――それを工藤は見逃さなかった。


「先生は、ずっと自分を抑え込んでいる……でも、それで救える命もあるかもしれない。」


工藤の言葉は、手術室の中に響いた。篠原は無言のまま手術を続けていたが、彼の動きにはわずかな迷いが生じているようにも見えた。


「先生……私も、あなたのように強くなりたいと思っていました。でも、今は違います。私は感情を持ったまま、命と向き合いたいんです。それが、私にとっての救命医です。」


工藤はそう言い切り、篠原の背中をじっと見つめた。篠原は何も言わず、ただ患者の状態を見続けている。彼の心の中にどんな葛藤があるのか、工藤には分からない。だが、篠原もまた、自分自身と戦っているのだろう。


手術は佳境に入り、出血もなんとか抑えられ始めた。工藤は篠原の指示に従い、次々と器具を渡していく。彼女の手はまだ少し震えていたが、心の中には新たな決意があった。


「私は、感情を捨てない。感情を持ちながら、命と向き合うんだ。」


手術が終わる頃、篠原は無言のまま手術台の患者を見つめていた。彼の表情には、いつもの冷静さが漂っていたが、その奥に隠された何かが少しだけ崩れているように見えた。


「工藤、お前のやり方で続けてみろ。ただし、それがどこまで通用するかは分からない。命は、それほど簡単じゃない。」


篠原はそう言い残し、手術室を去っていった。その背中を見送りながら、工藤は深く息を吸い込んだ。彼の言葉には、少しだけ柔らかさが感じられた。それは、彼が自分の考えを少しずつ認め始めているのかもしれない。


手術台の上で患者の命は繋ぎ止められた。だが、救命の現場ではいつ何が起こるか分からない。工藤はまだ、自分が正しい道を進んでいるのか分からなかった。しかし、今は確信があった。


「私は、諦めない。どんな状況でも、感情を捨てずに戦い続ける。」


その決意を胸に、工藤は新たな一歩を踏み出す覚悟を固めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る