第11話 命の重さ

夕暮れが救命センターの窓から差し込む。長い一日がようやく終わりに近づいていたが、工藤美咲の心はまだ休むことを許されていなかった。彼女の頭の中では、先ほどの手術のことが何度も再生されていた。命を救えたという実感がある一方で、その背後に漂う不安感が拭いきれない。命を繋ぎ止めたときの達成感は一瞬のもの。次の瞬間には、また新たな試練が待っている。それが救命医の現実だった。


廊下を歩く足音が、彼女の心の中で響いているかのように、重く鈍い。感情を持ちながら冷静さを保つ――その信念が揺らぐことはなかったが、その道がいかに険しいものであるか、工藤は痛感していた。感情が命を救う力になると信じながらも、その感情が自分自身を消耗させていることに気づいていた。


「美咲先生、大丈夫?」


ふと、背後から聞こえてきたのは、看護師長の松岡祐子の声だった。彼女の優しい声が、工藤の緊張をほんの少しだけ解いてくれた。松岡は工藤の様子を見て、彼女がどれだけ疲れているかを察していた。


「祐子さん……私は本当にこれで良いのかな?」


工藤は自分でも驚くほど弱音を吐き出していた。いつもは前を向いて進んでいくことしか考えていないのに、今はその進む先が見えなくなっている。松岡は静かに微笑み、工藤の隣に立った。


「良いかどうかなんて、誰にも分からないわ。でもね、美咲先生。あなたが今やっていることは、間違いなく命を救っている。それだけは確かよ。」


その言葉に工藤は少しだけ救われたような気がしたが、心の中にはまだ漠然とした不安が残っていた。松岡の目には、そんな工藤の心の内が手に取るように見えていた。


「先生、感情を持つことは弱さじゃないわ。むしろ、それがあなたの強さよ。でも、その感情に飲み込まれないようにするのは、難しいことね。」


松岡の言葉は、工藤にとってまさに今の状況を言い当てていた。感情を捨てることなく命に向き合うこと――それは工藤の信念だが、その信念が自分自身を壊しかけているのではないかという不安があった。


「先生、少し休むことも大切よ。救命の現場は終わらない。でも、あなた自身が壊れてしまったら、救える命も救えなくなるわ。」


松岡の言葉は、優しさに満ちていたが、同時に厳しい現実を突きつけていた。工藤はそれに気づきながらも、休むことに対して抵抗を感じていた。彼女は一瞬、窓の外に目を向け、夕焼けに染まる空を見つめた。赤く燃えるような空が、まるで彼女の心を映しているかのようだった。


「でも……もし私が休んでいる間に、誰かが助けを求めていたらどうしようって思うんです。」


その言葉に松岡は優しく頷いた。


「その気持ちはよく分かるわ。でも、すべての命を一人で救うことはできない。それを受け入れることも、救命医の一部なのよ。」


その瞬間、工藤の中で何かがふっと軽くなったような気がした。松岡の言葉は、彼女がずっと抱えていたプレッシャーを少しだけ解放してくれた。救命の現場は終わらない。だからこそ、無理をせず、続けることが重要なのだと。


そのとき、廊下の先から新たな患者が運ばれてきた。救急車のサイレンが響き、また次の戦いが始まる。工藤は一瞬、呼吸を整え、気持ちをリセットした。感情を持ち、冷静に対処する――それが彼女のやり方だ。


「また始まるわね。」


松岡が穏やかに微笑む。工藤はその言葉に小さく頷き、次の手術の準備を進めた。


運ばれてきたのは、20代の若い女性だった。彼女は突然の心停止で搬送されてきた。原因は不明だったが、すぐに手術が必要な状態であることは明らかだった。工藤はすぐに篠原遼に連絡を取り、チーム全員が準備に取り掛かった。


手術室の空気はいつも以上に張り詰めていた。患者の状態が急速に悪化していく中で、工藤は自分の感情を押し殺し、冷静に対処することに集中していた。しかし、その一方で、感情が沸き上がってくる。命が今にも消えそうなその瞬間、彼女の手が一瞬だけ止まった。


「先生、心拍が……」


看護師の声が響いた。心拍が再び不安定になり、患者の状態はさらに悪化していた。篠原は冷静に指示を出し続けていたが、工藤の心の中で何かが揺れた。


「美咲先生、ここはあなたの判断が必要です。」


篠原が静かに言った。その言葉は、工藤にとって大きな重みを持っていた。篠原が自分に判断を委ねている――それは彼が工藤の成長を信じている証だった。だが、その判断が患者の命を左右することを考えると、彼女は一瞬、言葉を失った。


「先生……私は……」


彼女の声は震えていた。篠原が静かに見つめている中、工藤は再び自分の信念と向き合った。感情を持ちながら冷静に――その言葉が頭の中で繰り返された。


「私は……絶対に諦めません!」


そう言い放つと、工藤は再び手術に集中した。篠原の視線を背中に感じながら、彼女は自分の全力を尽くして患者を救おうとした。


手術は長引いた。だが、最後の瞬間、患者の心拍が再び安定し始めた。工藤はその変化を見て、深く息をついた。彼女は感情と冷静さ、その両方を持って命に向き合い続けた。そして、再び命が繋がれた。


手術が終わると、工藤は全身の力が抜け、手術台の横にへたり込んだ。篠原は無言で彼女の隣に立ち、軽く肩を叩いた。


「よくやった、工藤。お前の信念がまた命を救った。」


その言葉に、工藤の目には涙が浮かんでいた。感情を持ちながらも、冷静さを保つこと。それは簡単なことではない。だが、彼女はその道を歩み続ける覚悟を持っていた。


「ありがとうございます、先生……」


涙を拭いながら、工藤は再び立ち上がった。次の命が待っている――その現実を受け入れながら、彼女は再び歩みを進めた。

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