第12話 工藤の迷い

朝の光が、救命センターの窓から差し込む。夜通し続いた手術がようやく終わり、工藤美咲は疲れ切った体を引きずるようにスタッフルームへ向かった。顔には汗が滲み、呼吸も浅い。手の震えを抑えようと指先を握りしめたが、体はその制御を受け付けないほど疲弊していた。


「ふぅ……」


深く息を吐き出し、椅子に腰を下ろす。体が沈み込む感覚とともに、手術の光景が頭の中で繰り返し再生される。彼女が最後に担当した患者は、50代の男性。緊急の心臓手術で命を繋ぎとめたが、術後の経過が芳しくない。そのことが、彼女の心に引っかかっていた。


「……大丈夫だったはず……」


そう自分に言い聞かせながらも、工藤はその言葉に確信が持てなかった。救った命もあれば、救えなかった命もある。それは救命医としての現実だと頭では分かっている。しかし、彼女の心の中では、救えなかった命の重さが次第に大きくなっていく。


ドアが静かに開き、看護師が入ってきた。彼女は工藤の顔を見て、少しだけ表情を曇らせたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。


「先生、先ほどの患者さんの家族が来てますよ。お礼を言いたいって。」


その言葉に、工藤は一瞬戸惑った。お礼を言われるほどのことをしたのだろうか?彼女の胸には、手術の成功よりも、未だに浮き沈みする不安感がこびりついていた。感情が揺れる中、彼女は小さく頷いて立ち上がる。


「はい、行きます……」


廊下を歩くと、救命センターのあちこちで忙しそうに動き回るスタッフたちの姿が目に入る。ここには、いつも変わらぬ日常がある。だが、命を扱う現場にいる限り、平穏など存在しない。毎日が戦場であり、常に誰かの命が風前の灯火だ。


待合室に入ると、男性患者の家族が静かに座っていた。母親らしき年配の女性が、涙を浮かべて立ち上がり、工藤に深く頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました……。先生のおかげで、命が助かりました。」


工藤はその言葉に一瞬言葉を失った。感謝されることは当然のように思うかもしれないが、その瞬間、自分が本当に命を救えたのか、疑念がよぎる。


「まだ、予断を許さない状況ですが……全力を尽くしました。」


形式的な返答をしながらも、工藤は自分の中で何かが崩れ落ちる音を感じていた。彼女が心の奥底で感じているのは、感謝ではなく、もっと根本的な問い――自分は本当に正しい判断をしたのだろうか?


家族との短い会話が終わり、工藤は待合室を後にした。廊下を歩く足取りが重い。まるで、先ほどの言葉が彼女にのしかかっているかのようだった。救った命もあれば、救えなかった命もある。それがこの世界の現実だと知っていても、彼女の中でその現実を受け入れるのは簡単ではなかった。


「感情を持ちながら、命に向き合う……」


つぶやいた言葉が、空虚に響く。自分が抱えている感情は、果たして正しいのか。感情を持つことが、逆に命を危うくしているのではないか――そんな疑念が頭をもたげる。


スタッフルームに戻り、工藤は再び椅子に沈んだ。深く息を吸い込んだが、その呼吸は浅いままだった。彼女はいつも感情を大切にしてきた。患者に寄り添い、命を救いたいという強い思いを抱いていた。それが彼女の信念だった。


だが、今日の手術の後から、何かが変わり始めている。感情を持つことが、医師としての判断を狂わせているのではないか。そんな恐れが、彼女の心を徐々に侵食していた。


その時、ふいに聞こえてきたのは、篠原遼の足音だった。無駄のない、一定のリズムを刻むその足音が、彼女の頭にまで響く。冷静で、決して感情に流されない篠原の姿勢が、一瞬だけ羨ましく思えた。彼のように、冷徹に命を扱うことができたなら、今のような迷いも感じることはないのかもしれない――。


「感情に揺れることなく、冷静に命を救う……」


そう心の中で呟くも、工藤にはそれができる自信がなかった。感情を持たずに命に向き合うことが本当に正しいのか、彼女にはまだ答えが見つからないままだった。

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