第13話 冷徹と情熱の狭間で

工藤美咲の心は激しく揺れていた。手術室での出来事が頭から離れない。彼女の判断で救えた命もあれば、救えなかった命もある。それが救命医の現実だと分かっている。しかし、心の中に生まれた疑念は、次第に彼女の信念を揺るがし始めていた。


廊下の奥から、冷たく響く足音が聞こえてくる。篠原遼だ。彼の姿が視界に入った瞬間、工藤の心に冷ややかな風が吹き抜けた。篠原は感情を見せず、冷徹なまでに命を救う医師だ。その姿が今の工藤には、あまりに眩しく、そしてどこか疎ましく感じられた。


「工藤、少し話がある。」


篠原の声は、冷静で、無駄のないものだった。彼の視線は鋭く、まるで彼女の心を見透かしているようだった。工藤は無言で彼に従い、スタッフルームへと足を踏み入れた。篠原はドアを静かに閉めると、工藤に向き直り、切り出した。


「さっきの手術のことだ。」


工藤の胸がざわめく。彼の言葉が、彼女の判断を否定するものではないかという不安が一気に押し寄せてくる。篠原の目は冷たく、そこに感情の欠片すら見えない。彼の次の言葉を待つ間、工藤の心は激しく揺れていた。


「お前の判断は、感情的すぎる。」


篠原の一言が、工藤の心を貫いた。まるで鋭いナイフが突き刺さったような痛みが、彼女の胸に広がる。感情的――その言葉が、彼女の中に隠していた不安を一気に炙り出す。


「感情で動くな。冷静に判断しろ。それができなければ、この現場では命を救えない。」


篠原の言葉は、冷酷なまでの真実を突きつけていた。工藤はその重みに耐えきれず、言葉を失った。感情を持つことが、彼女の信じる医師としての在り方だと思っていた。しかし、その感情が命を危うくするのなら、それは正しいと言えるのか?


「でも、先生……感情を捨てることで、本当に命を救えるんですか?」


工藤の声は震えていた。それは、自分の心の奥底にある疑問の声でもあった。感情を捨ててしまえば、自分は本当に医者でいられるのか。患者と向き合う中で、感情を押し殺して何が見えるというのか。


篠原は一瞬、工藤を見つめた。彼の目には、いつもの冷静さが宿っている。しかし、その奥にある何かが揺らいでいるようにも見えた。そして、彼は静かに口を開いた。


「俺は、感情に流されて命を救えなかったことがある。それ以来、感情を封じることを選んだ。」


篠原の声には、重い響きがあった。それは、彼自身が経験した苦痛の告白でもあった。工藤はその言葉に、初めて篠原の抱える重荷を垣間見た気がした。彼もまた、感情と冷静さの狭間で揺れた一人だったのだ。


「お前も、いずれその選択を迫られるだろう。感情に流されて救える命もある。だが、それで失う命もある。」


篠原の言葉が、工藤の心に深く突き刺さる。感情を持ち続けることが本当に正しいのか――その問いが、彼女の中で渦巻く。彼女は感情を捨てずに命と向き合いたい。それが彼女の信念だ。だが、その信念が命を危うくしているのではないかという不安も同時に募っていた。


工藤は目を閉じ、深く息を吸った。そして、ゆっくりと目を開き、篠原の瞳を見つめ返した。彼女の中で答えはまだ見つかっていない。それでも、今は自分の信じる道を進むしかない。


「私は……自分のやり方で命に向き合います。」


工藤の声は震えていたが、その言葉には確かな意志が込められていた。感情を持つことを捨てられない。それが彼女の選んだ道だ。篠原は黙って工藤を見つめ、そして何も言わずに部屋を出て行った。その背中は、彼女に多くのことを問いかけているように見えた。


工藤は篠原の背中を見送りながら、心に新たな葛藤が生まれていくのを感じていた。冷静さと情熱、二つの間で揺れ動く自分。彼女の戦いは、これからも続いていく。彼女の選ぶ道が、果たして正しいのか――その答えはまだ見つからないまま。

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