第14話 揺れる心臓

工藤美咲の心にはまだ篠原との会話の余韻が残っていた。しかし、救命センターに休息はない。彼女がスタッフルームを出て間もなく、緊急アラームが響き渡った。


「交通事故、重傷者到着!」


インターカムからの知らせに、工藤は反射的に動き出した。手術室ではない。救急処置室だ。重傷者が次々と運び込まれる中、彼女は自らの役割を果たすために駆け寄った。目の前に広がるのは、混乱と緊迫した状況。看護師たちが慌ただしく動き、患者の容態を報告し続けている。


「外傷性ショック、脈拍微弱!」


「気道確保!血圧が落ちている!」


工藤は周囲の状況を瞬時に把握し、動き始めた。目の前に横たわる若い男性患者の意識はなく、彼の胸部には深い外傷が見られた。心停止のリスクが高い。工藤は一瞬ためらったが、すぐに指示を出した。


「心臓マッサージを開始!アドレナリンの準備を!」


看護師たちは即座に動き、工藤の指示に従って救命措置を進めていく。工藤の手は震えていない。彼女は自分を信じるしかなかった。篠原の言葉が頭の片隅で響いている。感情で動いてはいけない。だが、今の彼女に必要なのは、目の前の命を救うための冷静な判断力だ。


心臓マッサージが繰り返され、モニターには微かな反応が現れ始めた。工藤は集中を維持し、患者の状態を確認する。


「脈が戻った!しかし、血圧がまだ不安定です!」


工藤は次の手を考える。今の彼にはまだ命をつなぐ可能性がある。感情が彼女の中でかき乱される。しかし、彼女はその感情を押し殺し、今できる最善の措置をとることだけを考えた。


「輸血の準備を!手術室の確保を!」


工藤の指示により、看護師たちが迅速に動き始めた。彼女の中で一つの確信が生まれていた。感情は捨てなくてもいい。ただ、冷静に判断し、正確に動くこと。それが救命医としての自分の役割だ。


すると、その時、扉が開き、篠原遼が入ってきた。彼の視線が一瞬、工藤に向けられた。その目には、いつもの冷静さが宿っている。しかし、工藤にはその奥に何かが隠れているように感じられた。


「患者の状態は?」


篠原の声は落ち着いている。工藤は彼に報告しながら、自分の判断が間違っていないことを確かめるように言葉を選んだ。


「脈は戻りましたが、血圧が不安定です。今から輸血と緊急手術を準備します。」


篠原は短く頷くと、工藤に続くように指示を出した。彼は患者のカルテを確認し、必要な措置を次々と進めていく。工藤と篠原は、互いの存在を意識しながらも、目の前の患者に集中していた。


患者が手術室へと移動されるとき、工藤は一瞬だけ篠原の方を見た。彼は一度も感情を見せていない。それが彼のやり方だ。しかし、工藤はその姿に、自分とは違う何かを感じていた。篠原の冷静さの裏に隠されたもの――彼女はそれを理解したいと思った。


手術室のドアが閉まり、工藤は手術着に身を包み直した。篠原が隣に立ち、彼女に短く言った。


「落ち着いてやれ。」


その一言に、工藤は自分の中の迷いが一瞬、消えるのを感じた。感情と冷静さ、その二つの狭間で揺れる自分。だが、今は目の前の命を救うことに全てを注ぐ。それが彼女の選んだ道だ。


工藤と篠原の戦いが、今始まる。彼女の中で新たな決意が生まれていた。感情を持ち続けながら、冷静に判断すること。それがどれだけ難しいか分かっている。しかし、彼女はその道を選ぶしかないのだ。手術室のライトが照らされ、工藤の心の中に光が差し込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る