第15話 篠原との決着
手術は数時間にも及び、医療チームの緊張感はピークに達していた。篠原遼と工藤美咲は、互いに一言も交わさず、ただ目の前の患者に集中していた。手術室の中には、心拍モニターの規則的な音だけが響き渡っている。工藤の額から汗が滴り落ち、彼女の手元にわずかな揺らぎが生じそうになるたび、篠原の冷徹な視線がその動きを見逃さない。
「もう少しだ、集中しろ」
篠原の短い指示が飛ぶ。工藤はその言葉に反応し、深く息を吸い込んだ。彼女の中で葛藤が渦巻いていた。感情と冷静さの間で揺れる自分。それでも、今はただ患者を救うことに専念しなければならない。彼女の手は徐々に正確さを取り戻し、やがて最後の縫合が完了した。
「終わった…」
工藤は静かに呟き、ようやく患者の安定した呼吸音に安堵を覚えた。篠原もまた、無言で手術の終了を確認し、手術器具を片付け始めた。手術室に漂っていた重苦しい空気が、次第に薄らいでいく。しかし、その静寂は工藤にとって、新たな緊張を生み出していた。彼女は、篠原との対峙を避けて通ることはできないと感じていた。
二人は手術室を後にし、スタッフルームへと戻った。篠原が手術用手袋を外す音が、静かな部屋に響く。工藤は彼に背を向けたまま、深い呼吸を整えようとした。だが、篠原の冷静な声が彼女の背中に突き刺さった。
「工藤、話がある。」
工藤は振り返り、篠原の目を見据えた。彼の瞳には、先ほどの手術で見せた冷静さが宿っている。しかし、その奥にある何かが、工藤には見え隠れしているように感じられた。彼女はその視線から逃げることなく、自分の中にある疑念と不安を押し殺し、彼に立ち向かう決意を固めた。
「篠原先生、私は今日の手術で一つの答えを見つけた気がします。」
工藤の声は震えていない。彼女の中で、確固たる意志が形を成していた。篠原は黙って彼女の言葉を待つ。彼は冷静だが、その瞳の奥にあるものが、工藤の心を揺さぶっていた。彼もまた、何かを伝えたいと思っているのではないか。そんな気がした。
「私は、感情を持つことを捨てられません。でも、それだけでは命を救えないことも理解しています。だから、私は感情と冷静さ、その両方を持ち続けて、患者に向き合います。それが、私の選ぶ道です。」
工藤の言葉は、これまでの彼女の葛藤と戦いを物語っていた。篠原はしばらく彼女を見つめたまま、何も言わなかった。部屋の中に静寂が広がり、二人の間にある緊張が頂点に達していく。
やがて、篠原は口を開いた。
「お前の選んだ道が正しいかどうか、俺にはわからない。ただ…」
彼は一度言葉を切り、深く息をついた。いつもの冷静な表情が、少しだけ和らいでいるように見えた。
「俺もかつて、お前と同じように感情を捨てるかどうかで揺れた。だが、その結果、冷静さだけを選ぶことにした。それが俺にとっての答えだった。お前が自分の答えを見つけたのなら、それでいい。だが、一つだけ忘れるな。医者は、患者の命を預かる存在だ。その責任の重さを決して見失うな。」
篠原の言葉には、彼自身の経験と覚悟が込められていた。それは彼が選んだ道の重みを伝えるものだった。工藤はその言葉を受け止め、改めて自分の選んだ道の厳しさを感じた。
「はい、先生。私はその責任を背負います。」
工藤の答えは、彼女の中で揺らいでいたものに一つの決着をつけるものだった。篠原は黙って頷き、部屋を出て行った。その背中には、彼自身が選んだ道を歩み続ける覚悟が見て取れた。
工藤はその背中を見送りながら、自分の中で新たな一歩を踏み出すことを感じていた。冷静さと感情、その二つの間で揺れながらも、自分の信じる医師としての在り方を見つけた彼女。これからも葛藤は続くだろう。しかし、彼女の中には確かな光が生まれていた。
彼女の戦いはまだ終わらない。だが、今は前を向いて進む覚悟がある。
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