第10話 終わりなき選択
朝が再び救命センターに訪れた。だが、工藤美咲の体と心はまだ一日の終わりを迎えていなかった。次から次へと運ばれてくる患者たち、命の重さに押しつぶされそうになる中で、彼女はようやく自分の信念に従う決意を固めていた。それは感情を持ちながら命に向き合うこと。だが、それがどれだけ困難な道であるかは、工藤自身が何度も痛感していた。
その日、工藤の前に運ばれてきたのは、50代の男性だった。彼は大規模な工事現場での事故に巻き込まれ、意識不明の状態で運ばれてきた。頭部の外傷がひどく、すぐに手術が必要だと判断された。
「準備を急いで!頭部に重度の損傷があります!」
工藤は手早く指示を出し、手術室の準備を進めていった。彼女の心臓は、いつも以上に速く鼓動しているのが分かった。重大な外傷を持つ患者に対して、どこまで対応できるのか。それは彼女自身への挑戦でもあった。
篠原遼もまた、その場に駆けつけていた。彼の冷静さは相変わらずだったが、工藤の目には彼が少しだけ違って見えていた。以前の篠原なら、感情を一切排除して、ただ機械的に命を救おうとしていた。だが、あの日、星空の下での会話以来、彼の中にも何かが変わりつつあるように思えた。
「心拍数が低下しています!すぐに手術を開始しないと!」
看護師の声が緊迫感を一層高める。工藤は瞬時に篠原の指示を待った。彼の判断力がこの手術の鍵を握っているのは明らかだった。
「まず出血を抑えろ。それから頭蓋内の圧を下げる処置を開始する。急げ。」
篠原の指示は的確で、すぐにチーム全体が動き出した。工藤もその一員として、彼の指示に従いながらも、心の中で何かが引っかかっていた。
手術が進行する中で、患者の状態は予想以上に悪化していた。出血が止まらず、モニターの数値が次第に不安定になっていく。工藤の手は冷たく汗ばんでいたが、彼女は一瞬たりとも手を止めることはなかった。感情と冷静さ、その両方を持って戦う――それが彼女の選んだ道だから。
「心拍数がさらに低下しています!」
看護師の叫びが響き渡る。その瞬間、工藤の心は激しく揺れた。命の灯火が消えかけている――それを目の当たりにして、彼女の感情が一気に溢れ出しそうになる。だが、それを抑え込んだのは、篠原の声だった。
「工藤、落ち着け。まだ諦めるな。」
篠原の声はいつもよりも静かで、そしてどこか優しさを感じさせるものだった。彼もまた、感情を完全に捨てていないのだと、その瞬間に工藤は気付いた。彼が冷静に見えるのは、自分を抑え込み続けているからだ。そして、その冷静さの裏には、篠原自身の痛みが隠れているのだろう。
「分かっています、先生……でも……」
工藤は必死に声を振り絞った。手術が進む中で、彼女の心は次第に感情に飲み込まれそうになっていた。この命を救いたい――その一心で手を動かし続けていたが、患者の状態は一向に回復する兆しを見せなかった。
「先生、もう無理です……」
看護師が小さな声で告げる。工藤の手が止まった。その言葉に、彼女の中で全てが崩れ落ちるような感覚があった。自分は本当に正しいことをしているのか?感情を持ちながら命に向き合うことが、ここで正しいのか?
その瞬間、篠原が静かに動き出した。
「工藤、お前がどうしてもこの患者を救いたいのなら、もう一度だけやれることを考えろ。」
篠原の言葉に、工藤の心は再び揺れ動いた。諦めることは簡単だ。だが、彼女は感情を持ちながらも、最後まで諦めないという信念を捨てたくはなかった。
「もう一度だけ……」
工藤は小さく呟き、手術器具を手に取った。彼女の心の中で、冷静さと感情がせめぎ合っていた。篠原の冷静な声が耳に残りながらも、自分自身の感情に従うべきだという思いが強くなっていった。
「まだ、救えるはずです……」
工藤の声は震えていたが、その手は震えていなかった。彼女は最後の一手を尽くすべく、患者の頭部に集中し、手術を続けた。
手術室は再び静寂に包まれた。チーム全員が工藤の動きを見守っていた。篠原もまた、彼女の背中をじっと見つめていた。彼の目には、これまでとは違う感情が垣間見えていた。それは、工藤に対する信頼だった。
「心拍数が……戻ってきました!」
看護師の声が響く。工藤は一瞬、息を呑んだ。彼女の手が止まったその瞬間、患者の命がかろうじて繋がれたのだ。全身の力が抜け、工藤はその場に崩れそうになったが、篠原の冷静な声が再び彼女を支えた。
「やったな、工藤。」
篠原の声は静かだったが、その中に微かな安堵感が感じられた。工藤はその言葉に少しだけ微笑み、ようやく息を吐き出した。感情を持ちながらも、冷静さを失わずに最後まで戦い抜いた――その結果、命が救われたのだ。
手術室を出た後、篠原は工藤に近づき、静かに言った。
「感情を持つことが、お前にとっての強さかもしれないな。だが、それを使いこなすには、まだ時間がかかる。焦らずに進め。」
篠原の言葉には、以前のような冷徹さはなかった。それは、彼自身もまた変わりつつあることを示していた。
「はい、先生。私……もっと強くなります。」
工藤は篠原の背中を見送りながら、再び新たな決意を固めた。彼女にとって、感情を持ちながら命に向き合うことは簡単ではない。しかし、それが彼女の道であり、救命医としての信念だった。
次の命が待っている。その現実に向き合いながら、工藤は再び手術室へと歩み出していった。
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