第9話 揺らぐ信念

救命センターの長い一日が終わろうとしていたが、工藤美咲はまだ疲労感を感じていなかった。患者を救ったばかりの手応えが、彼女の体を支えていたのだろう。だが、その安堵感は一瞬のものだった。新しい患者が運ばれてくるたびに、彼女の心は再び戦場に戻っていく。救命医としての終わりなき日々、その中で彼女は常に何かと向き合わなければならなかった。


夜が更け、センターには一時的な静けさが訪れていた。だが、その静寂の中に、工藤の心は乱れ続けていた。命を救うことの意味を問うたばかりの彼女に、また次の選択が迫られる。感情を持ちながら、冷静さを失わない――その二つの相反する価値観の狭間で揺れる工藤の心は、再び篠原遼との対峙へと向かっていた。


廊下の先から聞こえてくる足音は、篠原のものだとすぐに分かった。彼の足音はいつも無駄がなく、一定のリズムを刻んでいる。冷徹さがその歩き方にも現れているようだった。工藤はその足音が近づくのを感じ、心の中でわずかに息を詰めた。


「工藤、少し話す時間があるか?」


篠原の声は、いつもと変わらない冷静なものだった。だが、その冷静さの裏には何かが揺れている――工藤はそう感じた。彼もまた、感情と戦っているのではないか。そんな思いが、彼女の心に浮かんでいた。


「はい、篠原先生。」


工藤はそう返事をすると、篠原の後についてセンターの外へ出た。夜風が冷たく、秋の気配を感じさせる。篠原は病院の屋上へ向かい、二人は星の見える静かな場所に立った。


「最近、お前の手術を見ていて思うことがある。」


篠原は夜空を見上げながら、静かに言った。工藤は篠原の横顔をじっと見つめ、次の言葉を待った。彼がこんな風に自分に声をかけてくるのは珍しいことだった。何か大きな決断を下そうとしているのか――それとも、彼自身も揺れているのか。


「感情を持ちながら、命に向き合うこと。お前はそれを貫こうとしている。それはお前の信念だろう。でも……それがどこまで続けられるか、俺は疑問だ。」


篠原の言葉は冷たくもあり、どこか優しさを含んでいた。工藤はその言葉に少し戸惑いを覚えたが、それでも反発せずに答えた。


「先生が言いたいことは分かります。でも、私は感情を捨てたくないんです。感情を持っているからこそ、患者を救いたいと思える。それが私のやり方です。」


彼女の言葉には力が込められていた。感情を持ちながらも冷静さを失わないこと、それが彼女の信念だった。だが、その信念を持ち続けることがどれだけ難しいかは、工藤自身が一番分かっていた。


篠原はしばらく黙り込んだ後、深く息をついた。彼もまた、過去に感情を捨てる決断をした人間だ。その重さが彼の目に宿っているようだった。感情を捨てることが正しいのか――それは篠原自身もまだ答えを見つけていない問いだったのかもしれない。


「感情を持ちながらも、冷静に判断し続けることができるか。それは、簡単なことではない。」


篠原の声には、わずかに感情が滲んでいた。彼は冷徹で、感情を抑え込んでいるように見えていたが、その裏には誰にも知られたくない傷があるのだろう。工藤はその傷を感じ取ったが、それ以上踏み込むことはできなかった。


「私は、もう感情を抑えることに慣れてしまった。だからお前が羨ましいんだ。お前のように感情を持ちながらも、命と向き合うことができれば……」


篠原の言葉は突然途切れた。彼がどんな思いを抱いているのか、工藤にはまだ分からなかったが、彼もまた何かに揺れていることは確かだった。


「先生……私は、感情を持つことが時に重荷になることも分かっています。でも、それでも私は感情を捨てたくありません。それが私の信念だから。」


工藤は強い決意を持ってそう言い切った。篠原の目が再び彼女に向けられたが、その瞳の奥には、いつもとは違う揺らぎが見えた。篠原もまた、かつては彼女のように情熱的で、感情を大切にしていたのかもしれない。


「お前がそう言うなら、試してみろ。ただし、その道は険しいぞ。」


篠原の言葉には、警告とも取れる重さがあった。感情を持ちながら、命と向き合うこと。それは簡単ではない。しかし、工藤はそれを乗り越える覚悟があった。


「はい、先生。私は、私のやり方で命に向き合っていきます。」


その言葉に篠原は小さく頷き、夜空を見上げた。星の光が二人を照らしていたが、その光はどこか冷たく感じられた。命の現場での決断は、いつだって孤独であり、厳しいものだ。だが、その孤独を抱えながらも、工藤は自分の道を進む覚悟を決めた。


篠原は静かにその場を去り、工藤は一人で夜空を見上げ続けた。彼が何を考えているのか、何を抱えているのかは分からない。それでも、工藤には篠原の背中が以前より少しだけ近くに感じられた。


「私は、諦めない。」


その言葉を胸に、工藤は再び救命センターへと戻っていった。次なる命が待っている――その現実に、彼女は立ち向かう覚悟があった。

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