第8話 次なる戦い

夜が明け、救命センターには新たな朝が訪れていたが、工藤美咲の中で心はまだ暗闇に包まれていた。篠原遼との対話から時間が経ったが、その言葉は今もなお工藤の胸に重く残っていた。


「感情を捨てることでしか救えない命がある……」


篠原がそう言った瞬間、彼女の心に疑問が浮かんだ。感情を捨てることで本当に命を救うことができるのか?その問いに対する答えはまだ見つかっていなかったが、彼女は自分の道を貫くと決めた。感情を持ったまま、命に向き合う――それが彼女にとっての正義であり、彼女の救命医としての道だった。


救命センターの一日が始まると、すぐに新たな患者が運ばれてきた。朝の始まりは早く、時間を感じる余裕もない。工藤は意識を切り替え、再び現実の戦場へと戻っていった。


その日、工藤の担当となったのは40代の女性、呼吸困難と激しい胸の痛みを訴えて救急車で運ばれてきた患者だった。看護師からの情報によると、彼女は過去に心臓病の既往歴があり、今回も心臓が原因である可能性が高かった。工藤はすぐに患者の状態を確認し、対応を始めた。


「胸が……痛い……息が……できない……」


患者の苦しげな声が聞こえる。工藤は彼女の手を軽く握り、安心させるように優しい声で答えた。


「大丈夫です。私たちがいますから、すぐに楽になりますよ。」


だが、内心では焦りが募っていた。患者の顔色は青白く、呼吸は不規則だった。工藤はすぐに看護師たちに指示を出し、モニターで心電図を確認すると、心臓の動きに異常が見られた。


「心拍が不安定です。早く準備を!」


工藤は緊張感を感じながらも、冷静に次の手順を考えた。患者の命は風前の灯火だったが、工藤には確信があった。この女性を救わなければならない。そのために、感情を持ちながらも冷静に行動する。感情と冷静さ、その二つが彼女の中でせめぎ合っていたが、今はどちらも手放すことはできなかった。


「美咲先生、大丈夫ですか?」


その声に振り向くと、松岡祐子がそこに立っていた。看護師長として、彼女はいつも冷静で、的確な判断を下す。その存在が工藤にとってどれだけ支えになっているか、彼女自身も気づいている。松岡は工藤の顔を見て、少し心配そうな表情を浮かべた。


「大丈夫です。手術の準備を進めます。」


工藤はそう言い、心の中で自分に言い聞かせた。「私はできる。感情を持ちながらも、命を救うために最善を尽くすんだ」と。


手術室が整い、患者はすぐに運び込まれた。心臓に関わる緊急手術は緊迫感が漂う。手術台の上で、患者はかすかな意識を保っている。彼女の目には不安が浮かんでいた。工藤はその目を見つめ、患者の手を握りしめた。


「絶対に大丈夫です。私たちが必ず助けますから。」


その言葉に、患者はかすかに頷いた。工藤はすぐに手術台の隣に立ち、手術の準備を始めた。今度は篠原ではなく、別の心臓外科医が主導する手術だったが、篠原の影が工藤の心の中にちらついていた。彼だったらどうするのか、彼の冷静さが求められる場面だ。しかし、工藤はあえて自分の感情に従った。


手術が始まり、心臓の状態は予想以上に悪化していた。チーム全員が一丸となって対応に当たるが、工藤の中で不安が増していく。患者の命が揺れている――その現実が、彼女をさらに追い詰める。


「心拍が……また下がっています!」


看護師が叫ぶ。工藤は冷静に対応しながらも、心の中で必死に祈っていた。絶対にこの命を救いたい。感情が彼女の中で渦巻き、それが冷静さとぶつかり合っていた。篠原の言葉がまた頭の中に浮かんだ。「感情に流されるな」と――。


だが、工藤はその言葉を振り払った。


「感情を持っていてもいい。感情があるからこそ、命を救いたいと思うんだ。」


その瞬間、モニターの音が鳴り響いた。心拍が一気に乱れ始め、患者の心臓が危険な状態に陥ったのだ。工藤の心臓も同時に激しく鼓動した。冷静さが一瞬失われそうになるが、彼女は自分を奮い立たせた。


「心臓マッサージを開始します!」


自らの手で心臓マッサージを始める工藤。その手は強く、そして正確だった。彼女の目には焦りが見えたが、それでも患者を救うために懸命に動いていた。


「美咲先生……」


松岡がそっと彼女の肩に手を置いた。工藤はその手の温もりを感じながら、決して諦めることなく手を動かし続けた。感情に流されることなく、しかし感情を持ちながら――それが彼女の信念だった。


「戻って……戻ってきて!」


彼女の叫びとともに、モニターに変化が現れた。心拍が徐々に安定し、患者の命が再び繋がれた。その瞬間、工藤は全身の力が抜け、手術台の傍にへたり込んだ。息を整えながら、彼女は患者の静かな呼吸を感じた。


「良かった……」


涙が溢れそうになるのを必死にこらえたが、工藤はその感情を誇りに思った。感情を持ちながらも、命と向き合い続ける――それが彼女の選んだ道であり、彼女にしかできないことだ。


手術が無事に終わった後、工藤は松岡の隣で深い息をついた。松岡は静かに笑みを浮かべながら言った。


「あなたのやり方で、命を救ったんですね。」


工藤は少しだけ頷いた。彼女の中で迷いはまだ完全に晴れてはいなかったが、一つの道筋が見えていた。篠原のやり方とは違う、自分のやり方で命を救うということ――それが彼女にとっての正義であり、これからもその道を歩み続ける覚悟ができたのだ。


「ありがとう、松岡さん。私……これでいいんですよね。」


「もちろんよ、美咲先生。あなたはあなたらしく、救命医として進んでいけばいい。」


その言葉に、工藤は少しだけ微笑んだ。そして、また次の命が待っていることを感じながら、新たな一歩を踏み出す準備をしていた。

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