第22話 自信の喪失と過去の影

その日の夜、工藤美咲はいつものように救命センターを後にし、寂れた街の光の中を歩いていた。救えなかった若い男性のことが頭から離れない。彼の顔、そしてモニターが静かに鳴り止んだ瞬間の感覚が、何度も繰り返し蘇ってくる。


彼女は夜風にあたりながら、自分の判断が本当に正しかったのかを問い続けた。篠原遼ならどうしていただろうか――その問いが心の中で渦を巻く。篠原のように冷徹に割り切り、判断を下すべきだったのだろうか。しかし、感情を持たないで医師としてやっていくことはできるのだろうか。彼女の心の中で、葛藤はますます深まっていた。


夜空を見上げた瞬間、彼女のスマートフォンが振動し、見覚えのある名前が表示された。


「篠原先生…?」


思いも寄らぬ人物からの連絡に、工藤は戸惑った。篠原が異動してから、連絡を取ることは一度もなかった。急いで電話に出ると、相手の冷静な声が耳に響いた。


「工藤、久しぶりだな。最近どうだ?」


工藤は一瞬言葉を失った。彼の声はいつも通りの冷静さを持っていたが、その裏には彼女を気遣うような微かな柔らかさも感じ取れた。


「先生、実は…今日、大きなミスをしました。患者を一人、救うことができませんでした。」


工藤の声は震えていた。篠原にこの話をすることが、彼女の自信をさらに揺るがすような気がしてならなかった。しかし、篠原の返事は予想外だった。


「そうか。俺も何度もそんな経験をしてきた。全ての命を救うことはできない。お前が感じているその痛みは、医者なら誰しも通る道だ。」


篠原の言葉に、工藤の心は少しずつ冷静さを取り戻し始めた。彼の冷徹な姿勢の裏には、同じような苦しみや葛藤があったのかもしれない。彼もまた、命を救えなかった経験を積み重ねてきたのだ。


「でも先生、どうして冷静にいられるんですか?私はまだ、感情に流されて判断を間違えそうになることがあります。今日もそうでした…」


工藤の問いかけに、篠原は少しの沈黙の後、静かに語り始めた。


「冷静さは必要だ。しかし、感情を持つことを完全に捨てるべきだとは思っていない。俺が感情を封じているように見えたのなら、それは間違いだ。俺も何度も感情に振り回されたことがある。ただ、その感情をコントロールする方法を身に着けたんだ。」


篠原の言葉は、工藤にとって新たな視点だった。彼も感情を抑えていたわけではなく、それをコントロールしながら医者としての責務を果たしていたのだ。


「お前は、自分の感情を大切にしろ。それが、お前らしさでもある。だが、それに溺れることなく、冷静さを持って判断する力も必要だ。俺がいた頃のように、お前にはその両方を見つけ出す力がある。」


篠原の言葉に、工藤は涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。自分が目指していたのは篠原のような冷徹さだと思っていたが、彼の言葉を聞いて、自分の感情を持ち続けてもいいのだと感じ始めていた。


「先生、私はどうすれば…」


工藤の声は弱々しかったが、篠原は優しく続けた。


「答えはすぐに出るものじゃない。時間をかけて、自分のやり方を見つければいい。俺もまだ答えは見つかっていないが、常に目の前の命に全力を尽くしている。それでいいんだ。」


篠原の言葉が、工藤の心に静かに沁み込んだ。彼がかつて抱えていた葛藤や痛みを知り、彼女は少しだけ自分の道に希望を見いだした。


「ありがとうございます、先生。私も、もう少し自分の感情と向き合ってみます。」


工藤は感謝の言葉を告げ、電話を切った。篠原との会話が、彼女にとって大きな転機となることを感じていた。冷静さと感情、その二つの間で揺れながらも、自分の道を見つけていくしかない――その覚悟が、少しずつ彼女の中に芽生え始めた。


彼女は空を見上げ、静かに涙をぬぐった。冷静でありながら感情を捨てない医師として、篠原が教えてくれた道を信じ、工藤は再び前に進むことを決意した。

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