第6話 対峙

深夜の救命センターは静かだ。静か過ぎる。廊下に漂う空気はいつもより重たく、心臓の鼓動が耳に響く。工藤美咲は緊張と焦りを抱えながら、センターの外の喧騒を見つめていた。今夜は、あの篠原遼との直接対決が避けられない。彼とどう向き合えばいいのか、工藤にはまだ分からなかった。


昼間の出来事が頭から離れない。あの患者、心筋梗塞で運ばれてきた男性を救えなかったこと。それ以上に、自分の中にあった「諦めたくない」という思いを、篠原は一蹴した。それが正しいことなのか、工藤には答えが出ない。


彼女は、休憩室の椅子に座り込み、手元のカップから冷えたコーヒーを一口飲んだ。口の中に広がる苦味は、今の自分の感情と奇妙にリンクしていた。いつからか、篠原の背中を追いかける自分がいた。それは憧れだったのかもしれない。彼のように冷静で、どんな状況にも揺るがない存在になりたいと思っていた。だが、今の彼を見ると、その先に何があるのかが見えなくなっていた。


「諦めることが、救命医の道なのか……?」


ふと、自分の問いに答えるように、背後でドアが開いた。篠原だ。彼は無表情のまま部屋に入り、工藤の隣に無言で座った。静寂が二人を包み、しばらくは言葉が出なかった。


篠原の目はどこか遠くを見つめているようだった。彼もまた、何かに囚われているのかもしれないと工藤は思ったが、その考えをすぐに打ち消した。篠原はそんな感情を持つ人間ではない。彼はただ、「命を救う」という目的に向かって突き進んでいる。それ以外のことは全て捨て去っている。


だが、その「捨て去った何か」を見逃すわけにはいかなかった。


「先生、どうして……あのとき、諦めたんですか?」


工藤はようやく口を開いた。声は震えていたが、それでも彼に尋ねずにはいられなかった。篠原は一瞬だけ彼女を見つめたが、すぐに目を逸らし、淡々と答えた。


「工藤、あの状況では、時間が尽きていた。どれだけ努力しても、救えない命がある。それを理解しろ。」


彼の声はいつものように冷たく、無駄がなかった。だが、工藤はその言葉が胸に刺さると同時に、反発する感情が湧き上がるのを感じた。


「それでも……私は諦めたくありませんでした!」


工藤は思わず声を上げていた。篠原の冷静な態度が、逆に彼女を追い詰めていた。救えない命があることは理解している。だが、どうして篠原のようにそれを冷静に受け入れられないのか、自分でも分からなかった。


「先生は……先生は、本当に救命医として正しいことをしているんですか?」


その言葉に篠原の目が鋭く工藤を捉えた。彼の視線には苛立ちが込められていた。それでも、工藤はその視線から逃げなかった。彼女の中で何かがはっきりとしたのだ。


「正しいかどうか……そんなものは現場には存在しない。お前はまだ分かっていないようだが、救命の現場は理想で動く場所じゃない。現実を見ろ。感情に流されていては、誰も救えない。」


篠原の言葉は厳しく突き刺さった。彼はいつもそうだ。感情を捨て、冷静に判断し、次々と命を救う。だが、そこに感情はない。ただ、機械のように手を動かすだけだ。


工藤は、篠原の言葉が「正しい」ことを知っていた。だが、それでも何かが違う――その違和感は、彼女の中で消えることがなかった。


「先生が……先生が、感情を捨てている理由は何ですか?」


工藤の問いに篠原は少しだけ黙り込んだ。手元に視線を落とし、彼は答えることをためらっているように見えた。それは、篠原にとって痛みを伴う話なのかもしれない。彼の背中には、医師としての成功とは裏腹に、過去の傷が残っているはずだ。


「……」


篠原は何も言わず、深く息をついた。工藤はその姿をじっと見つめた。彼が今にも壊れそうな何かを抱えているように見えたのだ。


「昔、救えなかった患者がいる。そのとき、俺はまだ若くて、自分の技術を過信していた。感情を優先した結果、冷静さを失い……結局、その患者を救えなかった。」


篠原の声は静かだったが、その言葉には彼の過去の痛みが込められていた。工藤は驚きのあまり言葉を失った。彼もまた、かつては自分と同じように感情に支配されていたのだ。しかし、その結果、彼は大きな代償を払った。


「それ以来、俺は感情を捨てた。それが、俺が生き残るための唯一の方法だった。」


篠原は言葉を吐き出すように話し、再び静寂が部屋を包んだ。工藤は、彼のその決意の重さを感じながらも、何かが違うと感じ続けていた。


「でも、先生……それでも私は、感情を持ったまま、命と向き合いたいんです。」


工藤の言葉は、静かに部屋の中に響いた。篠原は無言のまま彼女を見つめていたが、その目には少しだけ揺らぎが見えた。彼女の言葉に何かを感じているのだろうか――それとも、ただの気のせいなのか。


「お前のその信念が、いつまで持つか分からないが……まあ、試してみることだな。」


篠原は静かに立ち上がり、工藤の肩に軽く手を置いて部屋を出て行った。その背中を見つめながら、工藤は自分の中に新たな決意が生まれるのを感じた。彼女は、自分自身のやり方で命に向き合い続ける。たとえそれがどれだけ難しくても。


篠原の背中にはまだ、彼自身が抱える過去の傷がある。それでも彼は前に進み続ける。そして工藤もまた、自分の道を進むしかないのだ。


「私は……諦めない。」


そう自分に誓い、工藤は新たな朝の光を見つめながら、次の命に向き合う覚悟を固めていた。

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