第5話 冷たい真実

救命救急センターの夜は、いつもの喧騒が戻っていた。廊下を走る足音、モニターのアラーム音、そして絶え間なく聞こえる無線の声――そのすべてが、今にも崩れ落ちそうな命を繋ぎとめようと必死になっていた。工藤美咲は、その渦中で何度も自分に言い聞かせた。


「今は考えるな。ただ行動しろ。」


自分を押し殺しながら走るのが救命の現場だ。それは何度も耳にした言葉だった。工藤は自分を鼓舞するように無機質な光が差し込む手術室に足を踏み入れた。目の前には、また一人の命が手術台に横たわっている。


「60代男性、心筋梗塞で運ばれてきた。意識不明で心肺停止。」


篠原遼の声が、手術室全体に響いた。冷徹で、無駄のない指示。工藤はその言葉に従い、彼の動きに合わせる。篠原の背中に続くように、手術の準備を進めながら工藤は再び自分を機械のように動かそうと努力した。


だが、心の中で蠢く不安は消えることがなかった。自分が手術の一部に過ぎないような感覚が押し寄せ、彼女の手を少しだけ震わせた。篠原の背中――それは完璧に見えたが、同時に冷たすぎるほどの無機質さが、工藤を不安にさせる。


手術は緊迫した状況で進行していた。篠原の手元は一切のブレもなく、器具を持つその動きは機械のように正確だった。だが、その瞬間、モニターの心拍が一気に乱れた。


「心拍停止だ!」


看護師の叫びが手術室を震わせた。篠原は表情を変えず、すぐに電気ショックの準備を指示する。工藤は必死にその言葉に従ったが、心臓を再起動させるべく与えられた電気ショックにも反応はなかった。モニターの表示は、ただまっすぐな線を示し続けている。


「もう一度。」


篠原は淡々とした声で指示を繰り返す。彼の表情には焦りは一切なかった。冷徹ともいえるその態度に、工藤の心の中で何かが軋み始める。彼は本当にこの命を救おうとしているのか?それとも、ただ機械的に手術をこなしているだけなのか――。


三度目の電気ショック。それでも反応はない。篠原は無言で腕を組み、静かに患者の顔を見つめた。その瞬間、彼の目にかすかな動揺が走ったように見えたが、それはすぐに消え去った。彼は手術を続けるかのように器具を片付け始めた。


「もう時間だ。ここまでだ。」


その言葉を聞いた瞬間、工藤はまるで冷たい水を浴びせられたような感覚に襲われた。篠原の口から出たその冷酷な言葉が、彼女の心を刺し貫いた。彼はただ「時間切れだ」と言った。まるで、命の終わりが時間の経過とともに自然に訪れるものであるかのように。


「先生、まだ手を尽くす方法があるかもしれません!」


工藤は必死に声を上げたが、篠原は振り返りもしなかった。


「工藤、お前はもう理解しなければならない。ここは戦場だ。戦場では、全ての命を救うことはできない。ある程度の犠牲は避けられないんだ。」


篠原の言葉は冷たく、重かった。それは彼の経験から来るものであり、彼自身の哲学だった。しかし、工藤はその言葉があまりにも冷徹すぎるように感じた。彼が背負っている何か――それが彼をこんなにも冷たくさせているのかもしれないが、それでも彼の言葉には、工藤が望んでいた「命を救う」という意志が感じられなかった。


「先生、それでも私は……最後まで諦めたくないんです!」


工藤の声は震えていたが、彼女はそれを抑えることができなかった。彼女の中で抑え込んできた感情が溢れ出しそうになっていた。それでも、篠原は彼女の言葉に耳を貸さなかった。彼は静かに手術台の上の遺体を見つめ、無言のまま部屋を後にした。


工藤はその背中を見送りながら、自分の中でどうすればいいのか分からなくなっていた。篠原の言葉は正論かもしれない。しかし、それでも心の中で何かが割れた音がした。彼の言葉に納得できない――そう感じている自分がいることに気づいた。


工藤はしばらく動けなかった。手術室に一人取り残され、無機質な空間の中で彼女の心は揺れ続けた。


「私は……本当に正しいことをしているのだろうか?」


その問いが心の中で響く。篠原のように冷静で、効率的であろうとすることで命を救えるのだろうか?それとも、自分の感情を捨て去らなければ、この現場では生き残れないのか――。


工藤は目の前にある手術台をじっと見つめた。そこに横たわっている遺体は、もはや何の感情も感じさせなかった。命が終わった瞬間、その体からは何かが抜け落ちてしまったかのようだった。そして、その感覚に工藤は震えた。命とは、こんなにも儚いものなのか――。


その瞬間、手術室のドアが開き、看護師長の松岡祐子が入ってきた。彼女は工藤の隣に立ち、遺体に軽く手を当ててから、静かに工藤に言葉をかけた。


「工藤先生、辛いですね。でも、これが現実です。」


松岡の言葉には優しさが込められていたが、その優しさがかえって工藤の心に重く響いた。現実――その言葉がこれほど冷たく響くのは、ここが救命救急の現場だからだ。


「松岡さん、私は……何が正しいのか分からなくなってきました。」


工藤は素直にその言葉を口にした。彼女の目には涙が浮かんでいたが、松岡はその涙を否定することなく、ただ静かに見守っていた。


「それでいいんです、工藤先生。答えを見つけるのは一瞬ではありません。ここで学ぶことは、正しさではなく、その中でどう自分と向き合うかなんです。」


松岡の言葉は、工藤にとって少しだけ救いだった。彼女は小さく頷き、松岡の隣で手術台を見つめ続けた。

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