第4話 命の境界線
夜の救命救急センターは昼間とは異なる静寂が漂っていた。がらんとした廊下、蛍光灯の冷たい光が床に映り込む。静寂といっても、ただそれは「嵐の前の静けさ」だった。次の瞬間に何が起こるか分からない――救命救急の現場では常に、その不安が付きまとう。
工藤美咲は手術室を出て、廊下に出るとその場に立ち尽くした。先ほどまでの手術が彼女の体力と精神力を削り取っていたが、疲れる暇などない。彼女の頭の中では、今日一日で経験したすべての出来事が、まるで嵐のように渦巻いていた。
「命を救うことは、こんなにも重いものなのか……」
先ほどの患者、50代の男性が交通事故で運び込まれ、チーム全員で必死に命を繋ごうとしたが、結局救うことはできなかった。工藤はその無力感に打ちひしがれ、重い胸の内を抱えたまま、息を吐き出すようにして手すりに寄りかかった。彼女の視界は曇り、目の奥に熱いものがこみ上げてきた。
「先生、大丈夫ですか?」
背後から聞こえてきたのは看護師長・松岡祐子の声だった。彼女はいつもの冷静な表情で、工藤の横に歩み寄る。彼女は、工藤が自分を追い詰めていることを感じ取っていた。看護師としての長い経験が、こうした若手医師の不安や迷いをすぐに察知するのだ。
「松岡さん……」
工藤は疲れた声で答えたが、それ以上言葉が続かなかった。彼女はただ目の前に立つ松岡を見つめ、その温かな眼差しに救いを求めるようにした。松岡はそんな工藤の気持ちを汲み取り、そっと彼女の肩に手を置いた。
「今日のことは、誰にでもあることです。でも、こうして挫けずに立ち続けることが、救命医の強さでもあるんです。」
その言葉に、工藤の胸に小さな火が灯るような感覚がした。彼女はゆっくりと息を吸い込み、震える声で返事をした。
「でも……あの患者さん、助けたかった……私がもっとできることがあったはずなのに……」
彼女の声には、涙が混じっていた。自分の無力さ、そして現実の厳しさが彼女を圧倒していた。松岡は黙ってその言葉を聞き、深く息をついた後、ゆっくりと口を開いた。
「工藤先生、救命の現場では、どうしても救えない命があります。どんなに努力しても、全ての患者を救うことはできません。でも、それでも私たちは挑み続けなければならないんです。たとえその結果がどんなものであろうとも。」
松岡の言葉は厳しいものだったが、その中にある優しさが、工藤の心にしっかりと届いた。彼女は何度か瞬きをし、溢れそうになる涙を必死にこらえた。彼女にとって、この瞬間は一つの分岐点だった。今ここで挫けてしまえば、これからもこの現実に押しつぶされてしまう。だが、松岡の言葉の中には、救命医としての覚悟が確かに息づいていた。
「ありがとう、松岡さん……」
ようやく工藤は、かすかな笑みを浮かべながら答えた。松岡もまた、小さく頷き、彼女の肩を軽く叩いた。
「それに、あなたには篠原先生がいます。彼から学べることはたくさんありますよ。彼は、表には出さないけれど、きっとあなたに期待しているはずです。」
篠原の名前を聞いた瞬間、工藤の胸が再びざわめき始めた。彼は確かに優れた救命医だ。その腕前も、判断力も、工藤がこれまで見てきたどの医師よりもずば抜けている。しかし、篠原の冷徹さには、どうしても何かが引っかかる。彼のように自分も感情を抑え、ただ命を救うために冷静に動くことが本当に正しいのか――。
「篠原先生は、何か……抱えているんでしょうか?」
思わず口に出してしまったその言葉に、松岡は一瞬眉をひそめた。そして、少しだけ言葉を選ぶようにしながら答えた。
「篠原先生は、以前ある患者を救えなかったんです。そのときから、彼は……」
その言葉を聞いた瞬間、工藤は心臓がドクンと大きく鼓動するのを感じた。彼の背中に感じていた冷たさは、単なる冷徹さではなかった。そこには、彼自身が抱える過去の傷がある――そして、それが彼を今の姿に変えたのだろう。
「でも、篠原先生は今もなお、救命の現場で戦い続けています。彼が感情を抑えているのは、そうしなければならなかったからです。あなたも、いつかその理由を理解するかもしれません。」
松岡の言葉は、篠原が持つ葛藤の一端を示唆していた。工藤はその事実を受け止め、彼を見つめる目が少しずつ変わっていくのを感じた。彼がどれだけの重荷を背負いながらも、この場に立ち続けているのか――その全てを知ることはできないが、彼の冷たさの裏にあるものを見逃していた自分に気付かされた。
「私も……篠原先生のようになれるでしょうか?」
工藤は、自分でも驚くほど静かにその問いを口にした。松岡は静かに微笑み、軽く彼女の背中を押すようにして答えた。
「それはあなた次第ですよ、工藤先生。あなたはあなたなりの方法で、命に向き合ってください。それがきっと、あなたの救命医としての道です。」
その言葉を聞いた瞬間、工藤の中で何かが少しだけ軽くなったような気がした。まだ不安や葛藤は残っているが、彼女は少しだけ前に進むことができた。自分自身の足で――。
そのとき、遠くから再び救急車のサイレンが聞こえてきた。工藤はその音に反応し、立ち上がった。次の患者が待っている――救命医として、彼女は再びその命に向き合わなければならない。
「行きましょう、松岡さん。」
彼女は覚悟を決めた顔でそう言い、廊下を駆け出していった。命の現場は、終わりなき戦いだ。しかし、工藤はもう一度、その戦場に立つ覚悟を固めたのだった。
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