第3話 生と死の狭間

午後の手術が終わった頃、救命センターは静かな緊張感に包まれていた。救急車のサイレンが遠くで鳴り響くのがかすかに聞こえ、窓の外では夕日が東京の街を黄金色に染めていた。工藤美咲は一瞬の休息を得るべく、センターの休憩室に座り込んだ。目の前に置かれた水の入ったコップの縁に指を滑らせながら、彼女の頭の中には、先ほどの手術の光景が何度もフラッシュバックしていた。


「母体を優先する、それが医師の判断だ。」


篠原の無表情な声が耳の奥にこびりついている。工藤は、あの言葉がまるで心の中の冷たい石のように重くのしかかっていた。彼は正しかったのかもしれない。だが、その「正しさ」の先にあるものは、何なのだろうか。


自分は一体何を感じているのか――医師としての正義か、それとも人間としての感情か。工藤は、篠原の背中を思い出しながらその問いに向き合っていた。あの冷徹な判断力、無駄のない手際。それは間違いなく医師として求められる能力だ。しかし、彼女は篠原の目の奥に、何か欠けているものを感じてしまった。それは恐怖だったのかもしれない。冷静すぎる彼の姿に、自分もそうなってしまうのではないかという恐怖――。


そのとき、休憩室のドアが軽くノックされ、藤村センター長が入ってきた。彼の顔には疲労の色が浮かんでいたが、どこか穏やかさも感じられる。


「工藤先生、少し休んでいるのか?」


工藤はすぐに姿勢を正し、少し緊張した表情で頷いた。


「はい、でも……少し頭が整理できなくて。」


藤村は無言で彼女の隣に腰を下ろし、しばらく沈黙が続いた。彼は工藤が何を感じているのか、何を悩んでいるのかを察しているようだった。目の前に広がる夕焼けを見つめながら、藤村が静かに口を開いた。


「救命医は、常に選択を迫られる。それが我々の宿命だ。どんなに訓練を積んでも、どれだけ経験を重ねても、その選択に正解はない。だが、患者を前にしては、必ず何かを選ばなくてはならない。」


彼の言葉は重く、だが不思議と優しさがあった。工藤は藤村の横顔を見つめながら、その言葉の意味を噛みしめていた。


「篠原先生は、母体を優先しました。確かにそれが正しい判断かもしれません。でも……私は、あの場で何か大切なものを失ったような気がして……。」


工藤は言葉に詰まりながら、心の奥に抱え込んでいた感情を少しずつ吐き出した。藤村はじっと彼女の話を聞いていたが、やがて静かに頷いた。


「篠原は確かに優れた医師だ。だが、彼が冷徹に見えるのは、彼自身がその感情を封じ込めているからだろう。彼が何を経験してきたのかは、私も詳しくは知らないが……人は、時に感情を押し殺さなければ生き残れないこともある。」


その言葉を聞いた瞬間、工藤の胸の中で何かが崩れた。篠原の冷静さは、ただの「優秀さ」ではなかった。彼もまた、何かを抱え込んでいる――自分とは違う形で、しかし同じように命の重さに苦しんでいるのかもしれない。


「でも……感情を押し殺さないと、生き残れないものなんでしょうか?」


工藤の問いに、藤村はしばらく答えなかった。そして、夕日がほとんど沈みかけた頃、彼は静かに答えた。


「それは自分自身で見つけるしかないんだ、工藤先生。医師としても、人間としても、どうやって命と向き合うか。それを見つけるのは君自身だ。」


その言葉に、工藤は自分が今何を求めているのか、ようやく気づき始めた。篠原のように冷静であることが全てではない。藤村のように、どこか人間らしさを失わずに医師として生きる道もあるのだ。そして、自分自身はそのどちらの道を選ぶのか――。


「ありがとうございます、藤村先生。」


工藤は深く頭を下げた。藤村は穏やかに微笑み、立ち上がってドアへ向かった。その背中を見送る工藤の中には、少しだけだが、心の霧が晴れたような感覚があった。


しかし、その束の間の安堵も、次の瞬間にかき消された。


「工藤先生、すぐ来てください!急患です!」


休憩室に響く看護師の声に、工藤は瞬時に立ち上がった。もう一度、戦いの場へと引き戻される。彼女の中で、答えはまだ出ていない。だが、目の前の命を救うために、今はただ動かなければならない。


廊下を駆け抜けると、救急車が到着する音が聞こえてきた。次の患者は、また新たな命の天秤にかけられる。その天秤をどう揺らすか、工藤はまだその重さを図りきれていなかったが、彼女の足は迷わず手術室へと向かっていた。


「今度こそ……何かを見つけられるかもしれない。」


そう自分に言い聞かせ、工藤はまた一つ、命の現場に向き合う決意を新たにした。

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