第2話 命の天秤
センターに到着したのは、まだ早朝の冷たい空気が漂う時間帯だった。救急ヘリの音が遠くから次第に近づき、まるで空から降ってくるように重圧感がセンター全体を包み込んでいた。工藤美咲はすでに準備を整え、ヘリポートへ向かうエレベーターの中で何度も深呼吸をしていた。
「今度の患者は、特に慎重に対応する必要がある」と、センター長の藤村健二がすでに無線で告げていた。
エレベーターのドアが開くと、工藤は一瞬の寒風に顔をしかめた。ヘリが着陸する音が轟き、強風が吹き荒れる中、彼女は全身の力を込めてその場に立っていた。次の瞬間、ドアが開き、ストレッチャーに乗せられた患者が運び出された。腹部を押さえ、苦しげな表情を浮かべる女性、その腹は膨れていた。そう、妊婦だった。
「30歳女性、交通事故に巻き込まれ、腹部に強い衝撃。胎児の状況も不明、出血量が多く、今すぐ処置が必要です!」
看護師の報告が響き渡ると同時に、篠原遼が現れた。無駄のない動きで患者の状態を瞬時に確認し、すぐに指示を出し始めた。その冷静さに工藤は思わず息を呑んだ。篠原の目は、何の感情も浮かべることなく、ただ冷酷なまでに現実を捉えていた。
「手術室を準備しろ。母体優先だ。」
その言葉が放たれた瞬間、工藤の心に重い波が押し寄せた。母体優先――その決断は、篠原にとっては当たり前のものだったのだろう。しかし、妊娠中の女性を前にした瞬間、工藤の中で医師としての冷静さと女性としての感情がせめぎ合い始めた。
「でも……もし赤ちゃんが助かる可能性があるなら……」
思わずつぶやいたその言葉は、篠原の耳にも届いた。彼は一瞬工藤を振り返り、冷たい目で彼女を見つめた。
「工藤、今は感情で動くな。救命医として、何を優先すべきか理解しているはずだ。」
その瞬間、工藤はまるで氷のような冷たさを感じた。篠原の言葉は正論だ。しかし、工藤の心にはどうしても引っかかるものがあった。彼の決断は、冷静で正確だが、その奥に何かが欠けているような気がしてならなかった。命を救うという医師としての使命感と、命そのものの尊さのバランス――その天秤の上で揺れ動く感情を、どう処理すればいいのか、彼女にはまだ分からなかった。
手術室に運び込まれる患者の姿を追いかけながら、工藤は次第に自分の中で渦巻く感情に押しつぶされそうになっていた。命を救うとは、果たして何を意味するのか――その答えはまだ、遠く手の届かない場所にあるようだった。
手術室に到着すると、篠原はすぐさま準備に取り掛かった。彼の手際は見事なもので、一切の無駄がなかった。工藤はその動きを黙って見つめながら、自分も何かできることがあるはずだと焦燥感を覚えた。
「工藤、お前はここで学べ。今日はオブザーバーだ。」
篠原の冷静な声が響き渡る。彼女はその言葉に少し戸惑いを覚えた。自分も参加して力になりたい。しかし、篠原の目は彼女を一歩も手術に加えようとはしなかった。
手術が始まる。篠原とチームのメンバーたちは無駄な会話もなく、迅速に手際よく動いていく。工藤はその様子をじっと見つめていた。だが、心の中では終始何かがざわめいていた。命の重さ、感情と責任の天秤は、いったいどこでバランスを取るべきなのか――その問いは彼女の中で未解決のままだった。
「出血が多すぎる……」
篠原が呟いたその瞬間、手術室の空気が一瞬固まった。母体の容体が急変し、チームは次々と指示を出し始める。しかし、篠原の顔には動揺は見られない。彼の手元は一切ブレることなく、まるで機械のように正確に動いていた。
工藤はその姿を見つめながら、篠原が何かを失ってしまったのではないかという不安を抱き始めた。彼は優れた救命医だ。しかし、その冷たさは彼を人間らしさから遠ざけているように感じた。救命医としての使命は理解しているが、その先にある「命の重さ」は篠原にとってどこにあるのか。
「先生、心拍数が……!」
突然、アシスタントの声が響く。モニターの数値が急激に落ちていくのが目に見えてわかった。篠原は表情一つ変えずに迅速な指示を出す。母体を優先する手術はまだ続いている。しかし、その姿はあまりにも冷徹だった。
工藤は、自分がその場に立っていることが不意に恐ろしくなった。篠原の背中を見つめる中で、命を救うという行為がこれほどまでに感情を排除するものなのかと、自分の中で何かが崩れる音がした。それと同時に、彼女の胸に新たな疑問が生まれた。
「命を救うために、人はここまで冷酷になるべきなのだろうか……?」
工藤の中にあるその問いは、答えが見つからないまま、手術室の冷たい空気の中に溶け込んでいった。
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