【完結】救命の夜明け
湊 マチ
第1話 新たな出発
午前8時。灰色の空に重く垂れ込めた雲が、冷たく無情な東京の街を覆っている。聖都救命救急センターの入り口前には、救急車が頻繁に出入りし、サイレンの音が絶え間なく響く。病院の窓から漏れ出す人工の光は、朝の薄暗さに飲み込まれていた。
工藤美咲は、初めて足を踏み入れるこの場所に不安と期待を胸いっぱいに抱えながら、制服の胸元をきつく握りしめた。若干28歳。救命医としてまだ経験は浅いが、ここでなら自分を試し、成長できると信じていた。手の中にある医療IDカードには、「工藤美咲、救命救急医」と記されている。文字は光沢を帯び、彼女に今から始まる戦いを冷たく告げていた。
「ここが、私の戦場……」
工藤はその言葉を心の中で何度も繰り返した。胸の中にある鼓動が高まり、無意識に足元を固く踏みしめる。目の前に広がる自動ドアの先には、命の危機が日常となっている最前線が待っているのだ。彼女の耳には、既に遠くでサイレンの音が再び鳴り響いている。
病院の入り口を越えると、内部は冷たい空気と緊張感で満たされていた。無数の医師や看護師が忙しなく動き回り、医療器具の音や会話が空気を震わせる。その中を進む工藤は、一瞬自分の呼吸が乱れるのを感じた。しかし、すぐに深呼吸して落ち着きを取り戻す。ここで挫けるわけにはいかない。彼女の目標は、この「聖都救命救急センター」の一員として、命を救うこと。それは彼女が医師になると決めたときから、唯一の信念だった。
「工藤先生ですね?」
突然、肩越しに低く落ち着いた声が聞こえた。振り返ると、そこに立っていたのは篠原遼だった。篠原は救命医の中でも特に冷静沈着で、数々の難局を乗り越えてきたことで知られるエース医師だ。彼の表情はどこまでも無機質で、感情の波は一切感じさせない。その瞳はまるで、感情を抑えた機械のように冷たい。
「はい、今日からこちらに配属された工藤美咲です。よろしくお願いします。」
工藤は緊張しながらも、深々と頭を下げた。篠原は一瞬彼女の表情をじっと見つめたが、すぐに背を向け、手術室へと歩き出す。まるで、彼女がそこに存在しないかのようだった。
「新人だろうと、時間は待ってくれない。早速始めよう。すぐに患者が運ばれてくる。」
篠原の言葉に応じ、工藤は自分を奮い立たせて彼の背中を追いかけた。彼の足取りは速く、決してためらいを感じさせない。数秒後、無線から激しい声が流れた。
「交通事故です!50代男性、頭部外傷、脳内出血の疑い!輸送中、意識レベル低下!心肺停止の可能性あり!」
篠原は無線を確認し、無表情で医療チームに的確な指示を出した。その姿を見て、工藤は初めて彼の「冷徹さ」の理由を垣間見た気がした。彼の迅速な判断と冷静な指示は、まるで機械のように無駄がなかった。それが、救命の現場では必要とされる能力だということを彼女は理解し始めた。
「工藤、お前も手伝え。初日だからといって見ているだけじゃ意味がない。」
突然の指示に、工藤は緊張で一瞬体が固まった。しかし、すぐに篠原の指示に従い、患者の処置に参加した。彼女の手は震えていたが、心の中で自分に言い聞かせた。
「私は、救命医だ。命を救うためにここにいる。」
救急車が到着すると、負傷者はすぐにストレッチャーで搬入された。50代の男性、血まみれの姿が鮮明に目に飛び込む。彼の息は途絶えかけ、目は虚ろだった。工藤は手を伸ばし、彼の呼吸を確認するが、明らかに生命の危機に瀕している。
篠原は素早く状況を確認し、無駄のない手術準備を進める。工藤はその背中を見つめながら、自分の心がざわつくのを感じた。篠原の動きには一切の迷いがなかった。彼はこの命を救うために全てを捧げているはずなのに、彼の目には一切の感情が感じられない。
「これが、プロの救命医なのか……」
工藤はそう思いつつも、自分の中で何かが軋む音を感じていた。救命の現場では冷静さが必要だということは理解している。しかし、篠原のように感情を一切排除することが本当に正しいのだろうか?それとも、彼が過去に経験した何かが、彼をそうさせているのだろうか?
篠原の指示のもと、手術は開始された。工藤は手術台の横に立ち、必死にその手元を追いかける。しかし、彼女の目の前で展開されるのは、命を救うという美談ではなく、生と死の間で揺れる激しい現実だった。
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