第17話 篠原の異動

大事故から数日後、救命センターはようやく日常を取り戻していた。だが、工藤美咲の心にはまだ、あの日の選択が重くのしかかっていた。救命医として感情に従い子供を優先した決断が正しかったのか――その問いが、工藤の胸を激しく揺さぶっていた。


ある日、救命センターに緊迫した雰囲気が漂い始めた。篠原遼が別の病院へ異動するという噂が飛び交っていたのだ。篠原が救命センターを去る――その現実が工藤の心に重くのしかかる。冷静で完璧な篠原がいなくなることに、医療スタッフたちも動揺しているのが感じられた。


工藤はその日の夜、篠原に呼び出された。救命センター内の会議室。そこには篠原と二人きりだった。いつもと変わらない冷静な篠原の姿が、工藤にとって今は遠く感じられる。


「異動の噂、聞いてるよな。」


篠原は無駄のない口調で切り出した。その言葉に工藤は動揺を隠せなかった。


「なぜ、先生が…?」


工藤は抑えきれない感情が湧き上がり、思わず言葉を発した。篠原は彼女の問いには答えず、静かに続きを話し始めた。


「俺は、来月から大学病院の救命センターに異動することになった。このセンターは俺がいなくても大丈夫だ。お前がいるからな。」


篠原の言葉に工藤は驚いた。篠原が自分に信頼を寄せていたとは思ってもみなかった。彼の言葉が信じられず、ただその場に立ち尽くす。


「お前は感情で動くことが多いが、それが全て悪いわけじゃない。俺は冷静さだけを選んできたが、それが唯一の正解だとは思っていない。お前のような医者も必要だ。」


篠原は工藤をまっすぐに見つめ、その言葉を噛みしめるように言った。彼の瞳には、いつもの冷静さとは違う、どこか優しいものが宿っていた。


「でも、私はまだ…」


工藤は戸惑いながら言葉を紡ぐ。篠原がいなくなれば、彼女はこのセンターで誰を頼ればいいのか分からなくなっていた。篠原の存在が、彼女にとって大きな支えだったことに気づく。


「お前ならやれる。感情に従って判断することも、それが正しければ命を救える。だが、お前に覚えておいてほしいのは、感情だけでは命を救えないことだ。」


篠原の声には、彼のこれまでの経験がにじみ出ていた。冷静さと感情、その両方を天秤にかけ続けてきた篠原だからこそ、その言葉には重みがあった。


「感情だけでは救えない…」


工藤は篠原の言葉を繰り返し、胸に刻み込むように呟いた。篠原が去ることで、自分がどれだけ篠原に頼っていたのかを痛感する。しかし、彼の言葉を受けて、彼女の中にある決意が少しずつ固まり始めていた。


「先生、私は…感情を捨てずに命と向き合っていきます。それが私の選んだ道です。」


工藤の声には、彼女の決意が込められていた。篠原は静かに頷き、彼女の言葉を受け入れるように見つめた。


「それでいい。だが、お前は一人で全てを抱え込む必要はない。俺もそうだったが、医者は自分の限界を知ることが大切だ。助けを求めることを恐れるな。」


篠原の言葉が、工藤の心に深く響いた。彼の異動が現実となり、工藤は自分がこれからの救命センターを背負っていかなければならないことを理解した。しかし、その重荷を一人で抱え込まなくてもいいという篠原の言葉が、彼女を少しだけ軽くした。


「ありがとう、先生。」


工藤は静かに感謝の言葉を口にした。篠原はそれに答えることなく、ただ静かに立ち上がった。


「これからはお前がこのセンターを引っ張っていけ。俺はもう、ここには戻らないが、お前を信じている。」


篠原は背を向け、ドアの方へと向かう。その背中はどこか寂しげだったが、彼の決意が揺らぐことはなかった。工藤はその背中を見つめながら、自分の中に生まれた新たな決意を感じ取っていた。


「私は、感情を持ちながらも冷静に命と向き合います。それが私の信じる道です。」


篠原の背中がドアの向こうに消え、工藤は一人、部屋に残された。しかし、その胸の中には、篠原から託された信頼と重荷が確かに存在していた。彼女は一歩ずつ、自分の選んだ道を進む覚悟を決めた。篠原が去った後も、彼の言葉は彼女の中に生き続ける。


これからの救命センターは、工藤の手に委ねられるのだ。彼女は篠原の教えを胸に刻み、次なる命と向き合うために、静かに前を向いた。

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