第11話
月子がふらふらとリビングに入ってきたのは、夜の10時を回ったころだった。まだ眠そうな顔をして、瞼をこすっている。その表情はやけに疲れていた。
「おはようございます。何か食べますか」
「……いらない」
かすれた声で返事をしてソファに腰かけた彼女に、せめてもと水を差し出せば一気に飲み干した。コップをローテーブルに置くと、放心したようにどこか遠くを眺めている。コップに水をつぎ足してから、俺もその隣に腰を下ろした。
「昨日の、隼也も見てた?」
こちらに顔を向けないまま、月子はそう尋ねる。月子は俺が見ていたのを知っているだろうに、嘘をつくのも変だと思ってうなずく。何も答えずにうつむいてしまった彼女の横顔をうかがうと、その頬には涙が流れていた。
「お嬢様」
「隼也には、見られたくなかったの」
傍らに置かれていたクッションをぎゅっと抱きしめ、月子はぐずぐずと鼻を鳴らす。俺はただ、おろおろすることしかできなかった。
「隼也には、ばれたくなかった」
涙声になりながら、月子は肩を揺らしている。なだめるように、その背を撫でた。
「気持ち悪いって言うんでしょう、隼也も」
「……言いませんよ」
そう言うと、月子はわずかに顔を上げて、目線だけを俺のほうに向けた。目が赤くなっている。
「俺は、あの日お2人が何をしてたのか詳しくは知りません。でも、何があっても、お嬢様のことを気持ち悪いなんて言いませんよ」
彼女はじっと、俺のほうを見つめた。クッションからおずおずと腕を離し、ソファの上で俺の手を探っている。手のひらを差し出すと、素直に指を置いた。相変わらずその手は熱かった。
ぎゅっと力の込められた手を、そっと握り返す。月子はしばらくそのままぼんやりとしていた。
「私、人の考えてることがわかるの」
月子の体温でうとうとし始めていたとき、彼女はぽつりとそうつぶやいた。自分が寝ぼけていたのかと思うくらい、その言葉が信じられなかった。けれど俺の疑いの目線を察したように、彼女はうつむく。
「本当よ。嘘じゃない、昔から周りの人の声が勝手に聞こえるの」
そうして月子は、ゆっくりと思い出すように、彼女の過去を話し出した。
物心ついた時から他人の心が読めたこと。それを両親から気味悪がられていたこと。人の考えが聞こえることで、自分自身も疲れていたこと。
「でもね、お兄さまの考えていることだけはわからなかったから、ずっとお兄さまといたの」
その頃から、日中はほとんど起きられなかったらしい。夕方学校から帰ってきた晴希によく遊びにつれて行ってもらったそうだ。
そんなある日、ふとしたときに、悩んでいる人の声を聞いてしまった。その人の心の声にうっかり返事をしてしまい、その噂が広がって、今のような状況ができあがったらしい。
「ほんと、なんでもないことだったのよ。悩んでる人がいて、でもそれが心の声だって忘れてて……大丈夫?って聞いただけなの。でもみんな、私のこと神様の使いだとか、神子だとか、そんな風に言うようになっちゃって……」
俺の手を握る指に、さらに力が入る。俺はもう、彼女を疑うことなんてできなかった。この目で、その様子を見てしまっていた。
「私が何か言うことで、喜んでくれる人がいるのは、いいの。それに、お兄さまも必要だって言うし。でも、段々怖くなってきちゃって」
ソファの上で、月子は足を折りたたみ、自分を抱きかかえるように縮こまった。その背中が、微かに震えている。
「あのね、隼也の心の声も聞こえないのよ。だから、隼也のとなりは静かで好き」
そう言って笑顔を作った彼女に、俺はよかったと言えばいいのか、安心だと思えばいいのか、わからなかった。
月子に拾われたあの日、分からないと口にしていた彼女の言葉の意味がわかった。俺の心の声が聞こえなかったからか。もしあのとき聞こえていたら、彼女に拾われることもなかったのだろうか。
月子は体を俺の方に寄せて、ぐったりともたれかかってくる。もういつも通りになってしまった、猫のような甘え方だ。
「隼也も、ずっと私のそばにいてね」
「……いますよ、お嬢様が捨てないなら」
なにそれ、と月子は笑う。彼女が無邪気に笑ってくれるなら、それだけでいいとすら思えた。
月子はいつの間にか寝息を立てていた。手をつなぎ、身体を寄せながら。俺は半身に、ただ彼女の体温を受け止め続けた。
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