第14話
何度も後ろを振り返りながらエレベーターに乗り、滑り込むように家の中へ入った。鍵を閉め、チェーンをかけたのに安心できない。それでも一晩中走っていた疲れがどっと押し寄せて、ぐったりと玄関にしゃがみこんだ。
どうしようもなく眠い。腹も顔も足も痛い。あの日と同じだ。靴を脱ぐことすらだるくて、俺はそのまま横になった。頬に触れたタイルがひんやりとしている。
まだ心臓はばくばくと鳴っているし、乱れた呼吸も整っていない。今ドアを開けたらあいつらが立っているような気がする。恐怖から、自分を守るように体を丸めた。
うっすらと目を開ける。玄関に晴希の靴はなかった。もう仕事に行ったのだろう。
もう一度目を瞑ろうとすると、きぃ、と扉の開く音が聞こえた。頭をもたげて音のした方を見ると、月子が心配そうな表情で、部屋から顔を出している。
「隼也……?」
普段は眠っている時間なのに。そう思うも疲れて口にできなかった。辛うじて体を持ち上げて起き上がる。
「どこ行ってたの? 心配したのよ。大丈夫なの?」
そういえば、プリンの入っていたレジ袋はいつの間にかなくしてしまっていた。申し訳ない、と謝罪しようとした声はかすれて、言葉にならなかった。
「ケガしてるの? 何があったの?」
月子は今にも泣きそうな顔で、俺の頬の傷におそるおそる触れた。じわりと鈍い痛みが広がる。俺は震える手で、彼女の手をつかんだ。唾を飲み込む。
「お嬢様、逃げちゃいましょうか」
手をつかまれた月子は、きょとんとした顔で俺を見下ろしていた。
「俺は、自分の過去から。お嬢様は、あの集会から。もう逃げちゃいましょう。嫌だったんですよね、ずっと」
月子の瞳が動揺して揺れる。何を言っているのと言いたげな表情だった。
「もうやらなくていいんですよ。無理に人の心の声を聞くのも、神様のふりするのも。嫌なら、逃げていいんです。俺が一緒に行きますから」
彼女の表情には、迷いが見えた。すとんと玄関に座り込み、うつむく。寝ていたせいで乱れた髪が、彼女の顔にかかる。
「本当に、いいの?」
そんなか細い返事が聞こえた。俺は手に力を入れて、はい、と答える。顔を上げた月子の目には、涙がにじんでいた。
「もう、みんなに嘘つくようなこと、しなくていいの?」
「いいですよ。お嬢様がしたくないって言うなら、やめちゃいましょう」
そう答えると、月子は口元に笑みを浮かべる。けれどそれは純粋に喜んでいるというわけではなさそうだった。
本当に逃げられるとは思っていない。そんな表情のようだった。けれどそれは、俺も同じだった。
痛む腹を抑えながら、よろよろと立ち上がる。月子が不安そうな顔をして俺を見上げている。
「行きましょう、お嬢様」
これはただの現実逃避だとわかっている。俺は自分の過去から逃げきれないし、月子は信者たちから逃げられない。けれど、それでも、逃げたいと思う気持ちを抑えたままではいられなかった。
月子の身だしなみを整え、俺の怪我の応急処置を手早く済ませる。体は痛かったけれど、月子の表情が準備するにつれて明るくなるのを見ていると、怪我などどうでもよくなってしまった。
思えば、集会以外で月子が外に出るのを見るのは初めてだ。彼女はお気に入りの白いワンピースに、背中にはピンクのリュックを背負っている。
「はやく行きましょう、隼也!」
玄関で足踏みをしながら、月子は俺を手招く。その手を取って、外へ出た。さっきよりも明るく、人通りも多い。あいつらが人ごみに紛れているのではないかと想像し、一瞬体が強張る。
「隼也?」
俺の手に力が入ったのに気が付いて、月子は俺を見上げた。大丈夫だ。彼女が隣にいるから。
「なんでもないです。行きましょう」
そうして、俺と月子のささやかな家出が始まった。
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