第9話
ふとバックミラーに目を向けると、座席に何かが置かれているのに気付いた。信号待ちの間に振り向くと、そこにあったのはスマホだった。晴希のものだろう。
連絡すると言っていたのに。そうぼやきながらさっきのビルへと戻る。入り口は相変わらず暗い。路肩に車を止め、スマホを持って降りる。
恐る恐るビルの中に入った。冷房がついているのか、どこからかひんやりした空気が流れてくる。外の音が遮断されたようにしんとしていて、ますます不気味だった。
入ってきたはいいものの、そもそも晴希たちがどこにいるのかわからない。入口の案内を見ると、ビルは10階建てのようだった。文字がかすれて、なんの会社が入っているのか読めない。
そろそろとビルの奥へ歩みを進めると、エレベーターがあるのが目に入った。6階で止まっている。そこにいるのかもしれない、とエレベーターを呼んで乗り込んだ。中は古く、2年前に発行されたお知らせが貼られたままになっている。
6階で下りると、暗い廊下が広がっていた。並んでいる部屋の中に、電気がついている場所がある。廊下には俺の足音だけが響いていた。部屋からは物音が聞こえない。
扉の前に歩み寄り、つけられた小窓から中をのぞくと、異様な光景が広がっていた。
たくさんの人がうずくまっている。いや、あれはうずくまっているのではない。固く両手を握りしめ、同じ方向に頭を下げ、何かに祈っているようだった。
彼らの祈る先に目を向けると、黒い衣装に身を包んだ人がひとり、スッと立っているのが目に入った。月子だった。
頭からかぶったベールのせいで表情は見えない。一心に祈る人々を、見下ろしているようだった。
目の前の光景が信じられなかった。一体何をやっているのか、想像もつかない。けれど、この部屋の中を見てまず浮かんだ単語は、宗教だった。
そんなまさか、と首を振る。月子から目線を外すと、壁際に晴希が立っているのにを見つけた。晴希がいなければ勘違いですんだかもしれないのに。そう思っていると、彼と目が合った。晴希は俺に気が付くと眉を吊り上げ、うずくまる人間の間をすり抜けてこちらに歩いてくる。
勢いよく部屋の扉が開かれて、俺は思わず後ずさった。晴希の眉間にしわの寄った顔が眼前にせまる。
「何しに来た」
低くドスのきいた声が耳に刺さる。胸倉をつかまれかねない勢いだった。
「あの、スマホ、忘れてたので」
そう言って晴希のスマホを差し出すと、ひったくるようにして俺の手から奪った。
「さっさと車に戻れ。俺が呼ぶまで来るな、ビルの中には入るな」
晴希は苛立った口調でそう言い捨てると、勢いよく扉を閉める。その音で思わず体がはねた。さっさと立ち去らなければまた怒鳴られそうだ。
最後にちらりと小窓から中の様子を覗くと、それなりの音がしたはずなのに、祈っている彼らは少しもこちらを見ていなかった。
車に戻り、さっさと駐車場へ走らせる。晴希から連絡がきたのは、日付が変わってからだった。
ビルの前に戻り、後部座席に乗り込んだ2人はひどく疲れ切っていた。ベールの隙間から見えた月子の顔は普段より青白い。晴希は月子の肩を支えながら、来るときには持っていなかった紙袋を抱えていた。
車を出すと、月子はすぐ眠ってしまったらしい。ぐったりと、車の窓に頭をもたれかけている。晴希はかたくなに目を瞑っていたが、起きてはいるのだろう。話しかけられたくないのだと察して、黙って運転することにした。
家に帰ると、月子も晴希もすぐ部屋に引っ込んでしまった。リビングには、今日のあれがなんだったのか、2人は何をやっていたのか、そんな疑問を抱えた俺だけが取り残された。
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