第8話

「お前、車は運転できんのか」



 日曜日の昼間のことだった。珍しく朝からずっと晴希が家にいると思ったら、突然俺にそう声をかけてきた。



「一応、できます」



 前の仕事で必要だったから、と言いかけてやめた。言う必要はないだろう。晴希はふうん、と相槌を打ってしばらく考え込むように俺のほうを見下ろしている。俺は一体何を言いつけられるのかと、気が気じゃなかった。



「じゃあ、月子が起きる前に車借りてこい。そんでマンションの前止めとけ」



 そう言って、レンタカー代を俺の手に握らせると、あくびをしながらリビングを出て行った。俺は途中だった洗濯物を片付けて、ポケットからスマホを取り出す。


 スマホは少し前に晴希から与えられた。自分が家にいないときに連絡が取れないと不便だからだそうだ。連絡先は晴希のものしか入っていない。それ以外、必要はない。


 調べると、確かに近くにレンタカー屋があった。どこかに出かける用事でもあるのだろうか。そう思いながら玄関で靴を履いてドアに手をかける。


 外に出るのは、あの日以来だった。ぎぃと鳴るドアを押すと、隙間から外の光が入り込んだ。それと同時に熱気も感じる。いつの間にか、夏になっていた。


 マンションの廊下には、セミの声だけが響いている。俺は恐る恐る歩き出した。誰もいないのに、誰かに見られているような気がして落ち着かない。


 エレベーターで下まで降り、マンションの外へ出ると、余計に緊張する。周りの目が気になって仕方がない。大丈夫だと自分に言い聞かせる。周りの人と目が合わないように、うつむいて歩いた。


 たまたまポケットに入ったままだった免許証で、無事に車は借りられた。車をマンションの前につけると、ちょうど晴希からメールが届いた。月子が起きたからもう少ししたら降りるとのことだった。


 ぼんやりと外を眺めながら、2人が来るのを待つ。車内の冷房が効き始めたころに、後ろのドアが開けられた。俺は振り向くと、思わず目を丸くした。


 乗り込んだ月子は、真っ黒なワンピースに身を包んでいた。頭までレースのベールのようなものをかぶっている。魔女か怪しい占い師のような装いだった。その隣に座る晴希は、黒いスーツを着用している。


 ぎょっとした顔の俺に気づいた晴希は、後部座席からぐっと体を乗り出した。



「お前は着なくていいから安心しろ」



「いや、そうじゃなくて、どうしたんですかその恰好……」



 その質問は無視された。晴希は腕を伸ばして、ナビに住所を入れていく。目的地を設定すると、黙って行け、という風に顎をしゃくった。


 ちらりとバックミラーに目を向ける。月子はうつむいているのと頭にかぶったベールのせいで顔が見えない。ただ、車に乗り込んでから彼女はなにも話していなかった。


 鏡越しに晴希と目が合い、睨みつけられる。しぶしぶアクセルを踏んで発車した。


 ナビに案内されるまま1時間ほど運転する。ついたのは、なんてことのないビルだった。ここに一体何の用事があるというのだろう。晴希は眠ってしまったらしい月子の肩を揺らして起こしている。



「適当な駐車場に止めて待ってろ。連絡したらこっちに車持ってこい」



「わかりましたけど、何しに行くんですか?」



「お前には関係ない」



 そう言い残すと、晴希は月子の手を引いて車を降りる。月子はついに一言も発さなかった。2人は暗いビルの入り口に消えていく。


 やや古めかしいビルだった。グレーの外装は、ところどころ汚れが目立つ。誰もいないのか、それとも見えないだけか、電気がついていない。少なくともエントランスは真っ暗だった。


 こんなところに一体何の用事があるのか。首を傾げつつ、駐車場を探すべく車を発進させた。

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