第19話

 家の中に入るや否や、晴希は疲れたから寝る、と言って自分の部屋に引っ込んでしまった。玄関に取り残されたのは、月子と俺の2人。



「隼也?」



 靴を脱ごうともしない俺に、月子が振り返って首を傾げた。俺は叱られた子供のように、玄関でぽつんと立ちすくんでいる。この家にあがる勇気がない。



「俺は、帰ってきていいんでしょうか……」



 こぼれたのは、そんな震えた声だった。月子を勝手に連れ出し、それが見つかったうえに過去の話も全てバレた。そんな俺が、この家にいていいとは思わない。


 月子が俺の手を取る。長時間外にいたせいか、タクシーの冷房がきつかったせいか、珍しくその手は冷たい。小さな指が、探るように俺の手のひらへ入り込んでくる。いつの間にか、手をきつく握りしめていた。


 結局、月子を逃がすことだって叶わなかった。何もできない中途半端な人間だ。この家に、迷惑をかけることしかできない。



「いいのよ」



 凛とした声がする。ハッと顔を上げると、月子はその顔に微かな笑みを浮かべていた。



「言ったでしょ。隼也がいなきゃいや。隼也がいればいいの」



 月子がぐい、と俺の手を引く。あの日、俺を拾ったときのように。



「お嬢様は、どうしてそこまで、俺に……」



 喉が掴まれたように、声が出ない。泣きそうだった。どうしようもなく情けなくて、悔しい。彼女の助けになりたいのに、迷惑をかけてばかりだ。



「あのね、いつも外にいるときは人の声がいっぱい聞こえるの。だからすぐ疲れてしまうんだけれど、隼也が一緒にいてくれたら静かなの」



 きゅっと、指先に力がこめられる。やわらかい爪が、手のひらに食い込んでいる。



「それにね、ずっとそばにいてって言ったら、いてくれるって言ったでしょう。それが嬉しかったのよ」



 月子に手を引かれるまま、俺は玄関をあがっていた。フローリングの冷たい感覚が、懐かしい気すらする。



「でも、俺は、お嬢様を連れ出すと約束したのに……もう、集会に出なくていいって……」



「いいの、もう」



 そう言う月子の表情は、どこか清々しかった。



「隼也とプリンも食べたし、人の声を気にせずに遠くへも行けた。楽しかったわ、だからいいの」



 強く唇をかみしめる。彼女の言葉は強がりだ。素直に逃げたかったと駄々をこねてくれたほうが、気が楽だった。


 彼女は散々諦めてきたはずだ。だからもう、諦めさせたくないと思ったのに。



「よくないです」



 喉から絞り出した声はかすれていた。切れた唇が動かすたびに痛い。月子が、じっと俺を見上げている。もうボロボロで、無様な姿の俺を。



「なにも、よくないです……」



 俺はずっと無力だ。こんな少女1人すら、救ってやることもできない。ただ月子が自分の感情を抑え込むのを、もう見たくないとだけ思っている。自分では何もできやしないくせに、わがままだ。


 そんなことをぼんやり考えていると、体がふらついた。思えば丸一日以上、ほとんど休まず動いている。あいつらにやられた怪我が、思い出したようにうずきだした。



「もう寝ましょ。疲れたでしょう」



 月子が俺をリビングへと引っ張っていく。そのままソファに座らされ、月子はいそいそとブランケットを俺の体にかけた。



「ふふ。私が隼也のこと見つけた日みたいね」



 確かに、初めて出会った日もこんな風だった。どうしようもなかった俺を、月子が引っ張って、このソファに寝かされていた。


 月子はソファに上半身を預け、今にも瞼が落ちそうな俺の横顔を見つめている。もうほとんど意識を手放しかけていた。



「あのね、隼也」



 ソファの上で組んだ腕に頭をのせながら、月子がひそひそと語りかける。けだるくて返事もできない。



「一緒に逃げようって言ってくれたの、お話の王子さまみたいで嬉しかったのよ」



 王子さまなんて、そんな綺麗なものじゃない。王子さまはきっと、逃げようなんて言わない。そう言い返す気力もなくて、俺はただうとうとしながら月子の言葉を聞いていた。



「……私は捕らわれのお姫さまだから、いいの」



 眠りに落ちる直前、そんな声が聞こえた。何かを言おうとしたのに、口を動かせないまま意識を失った。

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