第21話

 いつも通り、車をマンションの前に止める。西日が差し込んできて目を細めた。日の落ちるのが少しずつ早くなっている。


 月子たちが降りてくるのがいつもより遅かった。これがもう少し早ければ。もしくはもっと遅ければ、そんな考えを俺は今後何度も繰り返すことになる。


 2人がエントランスから出てきたのを横目で確認していると、コンコンと窓を叩かれた。長く停めすぎて警察に目をつけられたのだろうか。そう思って顔を前に戻すと、この間の2人がそこにいた。


 俺の顔を見ながらにやにやと笑っている。どうしてここがバレたんだ。着いてこられないように撒いたはずなのに。


 心臓がバクバクと早鐘を打つ。体中から血の気が引いていった。


 片方が、車に乗り込もうとする月子たちに気が付いた。かけていたサングラスをひょいとあげて、彼女たちを見つけると、俺を煽るように笑って2人に近づこうとする。


 その瞬間、俺は車から飛び出していた。


 頭の中にあったのは、月子と晴希には手を出させないという意志だけだった。あの日ですら反撃できなかったのに、俺の拳は躊躇なく男の顔面に振り下ろされた。


 手が骨にめり込む感覚がある。男のサングラスが飛び、道路に転がっていく。それを見たのも束の間、もう片方が俺の顔を殴っていた。


 それからは、めちゃくちゃだった。いい加減に腕を振り回して、自分がどれだけ殴られているのか、相手がどんな状態になっているのかもわからないまま、段々と視界がぼやけていく。


 流れてきた鼻血を腕で雑に拭ったとき、怯えた顔をした月子と目が合った。手で口元を押さえ、小鹿のようにがくがくと足を震わせている。それを支えている隼也も、困惑と恐怖の入り混じった表情で俺を見ている。



「逃げてください」



 声がかすれる。2人はきょとんとしたまま、その場を動かない。



「逃げてください!」



 引きつる声で必死に叫ぶ。ぐっと一瞬顔をしかめた隼也が、月子の身体を支えたまま、引きずるようにしてその場を走り去った。


 2人の姿が路地裏に消えて、俺はようやく安心する。これで俺は死んだっていい。2人を守れればどうなったっていい。


 俺に顔を殴られた男2人は、月子たちを追いかけることなく、ただ俺に反撃しようとまた拳を振り上げる。痛みはとっくに感じなくなっていた。


 抵抗できる力がなくなって、意識を失いかけたとき、誰が呼んだのかパトカーと救急車のサイレンの音が聞こえた。そこで意識を手放したから、それからのことはあまり覚えていない。


 目を覚ますと見知らぬ天井が見えて、硬いシーツの感覚が病院のベッドのものだと気づいた。ぼやけた視界で部屋を眺めている間、保険証もないのにどうしようと考えていた。


 看護師から、骨は折れておらず、打撲で済んでいること。命に別状はないし、一週間もすれば退院できることを告げられた。あの後のことなんて何も考えていなかった俺は生返事しかできず、看護師に怪訝そうな顔をされた。


 ベッドの上でぼーっとしていると、そのうち警察がやってきて取り調べを受けた。あの2人は捕まったらしい。俺はあの2人なんて知らない。ただ絡まれただけだと嘘をつく。警察はその嘘をあっさりと信じて、お大事にと言って帰っていった。


 入院している間、ただ月子たちのことが心配だった。居てもたっても居られず、もっと早く退院できないかと聞いたが、医者の許しは出なかった。脱走してやろうとも思ったが、傷が痛んで実行には移せなかった。


 あの2人は捕まったわけだし、きっと月子たちは無事だろう。変わらずあの家で生活を送っているはずだ。そう考えながらも、不安で夜はなかなか寝付けなかった。ここ数カ月で1番の寝不足だった。自分があの家でどれだけ安心しきって眠っていたのかを知る。


 1週間経って、体中のあざはまだくっきりと残っていたが、ひとまず退院できることとなった。医者にはもう少し入院しているようにと勧められたが、頑なに首を横に振る。俺は帰らなくてはならない。2人の無事を、確かめなければならない。


 病院は案外マンションから近いところに位置していた。病院から出ているバスに乗り、3つ目の停留所で降りる。平日の昼間ということもあって、乗客は少なかった。


 バス停からマンションへの短い道のりの間、まだ月子は寝ているだろうか。晴希は仕事に行っているだろうか。と2人のことを考えて、自然と早足になっていた。


 エレベーターに乗り込む。ゆっくりと上昇する時間すらもどかしい。ポケットから鍵を取り出しながら降りる。廊下には誰もいない。


 そして俺は、鍵を差し込むはずだった玄関の扉に、KEEP OUTと書かれた黄色いテープが張られているのを見た。

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