第22話

 黄色いテープの張られた扉の前で、俺は茫然と立ちすくんだ。脳みそが受け入れることを拒んでいる。何が起きているのかわからない。いや、わかりたくないだけだ。鍵を持つ手が震えている。


 隠された鍵穴に、テープをはがして鍵を突き刺す。恐る恐る回すと、がちゃんと重たい音とともに開錠された。ホッとする。それと同時に自分がやろうとしていることに背筋がひやりとする。


 音がしないようにそろそろとテープをはがす。扉が開く程度にはがし終えると、周りに誰もいないのを確認して、家の中に滑り込んだ。


 玄関には晴希の靴も、月子の靴もなかった。急かされるように靴を脱ぎ捨てると、すぐ右にある月子の部屋の扉を開ける。扉にかかっていたはずのプレートがない。


 部屋の中には、何もなかった。カーテンすらも取り払われて、引っ越した直後のような部屋がそこにはあった。月子の好きな本が詰まった棚も、白いフリルのついたベッドもない。


 向かいにある晴希の部屋にも、何もない。もともと何もない部屋ではあったが、数少ない家具すらなくなっている。


 頭の中がしびれて、足元がふらつく。よたよたと廊下を抜けてリビングに入った。けれどそこもまた、がらんどうだった。


 毎日寝起きしていたソファも、月子が教科書を広げていたテーブルも、何もない。フローリングのひやりとした感覚だけが足の裏から伝わってくる。


 カーテンが開け放されたリビングを見るのは初めてだった。もっと小さな部屋のイメージだったが、何もなくなったリビングは広々としていて、1人だと心細い。


 2人とも、もうこの部屋にはいない。


 信じたくなかった事実が、否応にもなく突き付けられる。足から力が抜けて、冷たい床に座り込んだ。体の震えが、寒さからか別の理由からなのかわからない。



「お嬢様」



 呼んでみても、答える声はない。



「晴希さん」



 ただ俺の声が、静かなリビングに消えていく。道路を車が走り抜ける音すら、うるさく聞こえた。


 2人はどこに行ったのだろう。連絡を取ろうにも、スマホは昨日の騒動でなくしてしまった。聞ける人もいない。3人で、閉じこもって生きてきたのだ。


 ふ、と思い立って立ち上がる。家を出て、テープを張り直し、マンションを飛び出した。車を借りる余裕も、タクシーを呼び止める間も惜しく、ただ走る。


 いつも集会に使っているビルまで、がむしゃらに走った。車で行けば大した距離ではない道のりが、永遠に感じられた。


 灰色がかったビルの前にたどり着く。いつも通り薄暗いエントランスには、マンションの家と同じように立ち入り禁止のテープが張られていた。人がいないのを確認し、テープをくぐって中に入る。


 中にはやはり誰もいなかった。1階ずつ廊下を端から端まで見て回ったが、どの部屋にも誰もいない。いつも集会に使われている部屋にも、誰も。


 この数か月の暮らしの痕跡が、どこにも見つからなかった。あの家も、月子も、晴希も、すべて存在していたことを証明するすべがない。俺はもしかしたら長い夢を見ていたのではないかと思うほど、きれいさっぱりなくなっている。


 俺は、あの月子に拾われた日から、ずっと病院で眠り続けていたのではないだろうか。あの3人で暮らす夢を見ていたのではないか。それなら、何もなくて当たり前だ。


 俺はただ、2人が無事じゃないのではないかと思うことに耐えられなかった。2人が暮らしていた家も、生きていくために利用していた場も、すべて立ち入り禁止になってしまったら、2人はどこに行けばいいと言うのだろう。


 俺は、どこに帰ればいいのだろう。


 走ってきた道を、とぼとぼと歩く。日が落ちるにつれ、人通りが増えた。長い黒髪の女の子につい目を向け、晴希に似た背格好の男性に思わず振り向いてしまう。人違いばかりで、2人は見つからなかった。

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