第16話

 プリンを食べ終え、オレンジジュースを飲んでいる月子を見ながら、俺は硬い生地のソファに深く体を沈める。これから、どこへ行こう。


 金はない。家から財布は持ってきたけれど、俺自身に与えられている金は元々ほとんどない。


 逃げるなんてたいそれたことを言ってしまったものだと今更後悔する。彼女をどこかに逃がしてやるような力なんて、俺にはない。


 勝手に1人で逃げればよかったのだ。月子を巻き込んで家を出たことを晴希が知れば心配するだろう。1人で逃げるのを怖がった、俺の弱さだ。



「隼也?」



 氷も解け切り、からっぽになったグラスを名残惜しそうに両手で包みながら、月子は首をかしげる。俺が悩んでいることに、彼女はやたらと目敏い。


 だからつい、弱気な言葉が口をついた。



「お嬢様だけでも、帰りますか?」



 自分で思っているよりも、沈み切った声が出た。月子はじっと俺を見つめていた両目を大きく開く。その目を、俺は直視することができない。



「お嬢様が遠くに行ったと知ったら、晴希さんは心配するでしょう。俺だけならまだしも、お嬢様がいなくなったら悲しむ人がいるんですから」



 月子の顔色を窺うと、彼女は明らかに怒っていた。唇をむっと尖らせ、大きな瞳で俺をにらんでいる。



「隼也が、一緒に逃げようって言ったんでしょう」



 表情に反して、その声は駄々をこねる子供のようだった。



「逃げていいよって言ったのは隼也でしょう。どうして、私だけ帰るかなんて聞くの?」



 尖らせていた口元がふにゃりと歪み、今にも泣きだしそうだった。



「だって、このまま俺についてきても、どこまで行けるかなんてわかりません。安全も、保障できないし」



 月子の目は、それがなんなのだと言いたげだった。普段は幼い子供のようなのに、この人はどうして、時折こんな覚悟の決まった表情を見せるのだろう。彼女よりずっと年上なはずの俺が、たじろいでしまうほど潔い顔をしていた。



「逃げようって、あの家から連れ出したのは隼也よ。私は帰らない」



 そう言うと、月子はソファから降りて立ち上がった。目線の高さが同じになる。彼女が、俺の手を取った。



「それに、私は隼也がいなきゃいや」



 ぐい、と手を引っ張られる。どうしてこんなに力強く、彼女は俺の手を引くのだろう。最初に出会った時から、そうだった。



「……そうですね」



 手を引かれるがまま、立ち上がる。彼女の覚悟を、俺が台無しにするわけにはいかない。喫茶店を出ると、もう日が高く昇っていた。太陽の光が眩しい。


 月子は俺の手をつかんだまま、ずんずんと道を進んでいく。俺の手よりひと回り小さい彼女の手につかまれたまま、俺はただ後をついていく。


 どこに行くのかは聞かなかった。あてがないのはお互い様だ。


 明るく、人の多いほうへと彼女は向かっているようだった。けれどだんだん足取りが重くなっていき、今は俺にしがみつくようにして歩いている。



「お嬢様?」



 うつむいた彼女の顔を覗き込むと、その瞳はうつろだった。ゆっくりと瞬きをしている。眠いのだろうか。



「どこかに座りましょうか」



 そう声をかけるも、彼女は首を横に振る。けれど、確実に歩く速落ちていた。時折かくん、と体が崩れる。そのたびに彼女を慌てて支えなければならなかった。


 休もうとしても拒否する彼女に、俺は困り果てた。前に転んでしまいそうな月子の身体を抱き止める。もうほとんど目は開いていなかった。



「お嬢様、俺が背負いますから、おんぶしましょうか」



 限界だったのか、彼女は素直にうなずいて、俺の背中におぶさった。いくら月子が小柄とはいえ、11歳が背中に乗るとそれなりに重い。ぐっと膝に力を入れて立ち上がる。ついよろけそうになるのを、どうにかこらえる。


 月子はすでに、俺の背中で寝息を立てていた。彼女の体重が、そのまま乗っかっている。腕に力を入れて背負いなおすと、俺はよたよたと歩き出した。


 真っ昼間に小学生の少女を背負って歩く男はやはり目立つらしい。通りすがる人がちらちらとこちらを見ているのが伝わる。人気のない道を探そうかと思ったが、余計に怪しまれそうでやめた。


 晴希にも、こんな風に妹をおぶって歩いた日があったのだろうか。月子はきっと、今までも外で寝てしまうことだってあっただろう。そんなとき側にいたのは、彼だったはずだ。


 何も言わずに家を出た罪悪感からか、彼のことばかり気にしている。月子を背中に乗せて歩く間、このまま家に帰ってしまおうか悩んでいた。けれど、今から引き返すには、遠くまで来てしまった。


 時折休みながら歩くうちに、日が傾いてきた。西日が眩しかったのか、月子が背中で身じろぐ。けれど、起きることはなかった。


 いつの間にか、人も家も少ない道を歩いていた。歩道もなく、横を車が通り抜けていく。


 このまま、どこへ行くのだろう。


 彼女を連れ出した瞬間から、幾度となく浮かんだ疑問は解消できないまま、ただひたすらに歩いた。

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