第3話
ぱたんと冷蔵庫を閉めると、男は俺に向き直った。
「で、誰なんだお前は」
きつい目でにらまれて、俺は肩をすくめる。
「
縮こまり、男の視線をうかがいながら頭を下げる。男は全く表情を変えなかった。
「今宮晴希だ。聞いてると思うが、月子の兄だ」
そう言うと、晴希はペットボトルを片手に、ソファに座り込む。ぼんやり突っ立ったままの俺を一瞥した。
「それで、いつ出て行くんだ。もう2日置いてやってるんだぞ。動けるってことは、だいぶ回復したんだろ」
「俺、2日も寝てたんですか?」
「そうだよ」
ぶっきらぼうだったが、怒っているわけではなさそうだった。月子は晴希の隣に腰かけて、楽しそうに俺と兄とを交互に見比べている。
「あんな夜中に月子に叩き起こされて、お前をここまで運んだんだよ」
いや、やっぱり怒っているのかもしれない。すみません、と喉から声を絞り出してただただ頭を下げるしかできなかった。
「何があったんだよ、あんなとこで」
ちら、とこちらを見て、晴希はそう問いかける。そりゃ、あんなところでぼろぼろになった男が捨てられていたら何事かと思うだろう。まぁ俺も、月子が現れたときは何事かと思ったのだが。
「いや、まぁ、ちょっと」
命の恩人といえど、事情は話せなかった。話さないほうがいいだろうと、そう思った。
「ふうん」
納得しているのか、どうでもいいのか、晴希は適当な相槌を打つ。ペットボトルに入った水を口に含み、もう興味なさげな顔で俺のほうを見上げた。
「いいけど、さっさとどっか行ってくれ。知らない人間がずっとリビングにいるのは気味が悪い」
俺は自分の喉がきゅっと鳴るのを感じる。今考えていることを言おうとすれば、間違いなく怒鳴られるだろう。叩き出されてもおかしくはない。それでも、口にする以外の選択肢は俺になかった。
「ここに、置いてもらえませんか」
「は?」
ただでさえ鋭い目つきが、さらに厳しくなった。きゅっと眉根を寄せて、俺を睨んでいる。
「なんだよ、怪我が治るまでとかそういう話か? そんなにひどいなら病院いけ。そこまで面倒見てられん」
晴希の言うことはもっともだった。けれど俺は、彼らにそれ以上のことを要求しようとしている。月子はこれから何が起こるのか期待しているような顔で俺を見つめていた。
「しばらくここに置いてほしいんです」
俺がすべて言い切る前に、晴希は抗議したげな顔をしていた。案の定はあ?と声を荒げた晴希に、俺は深々と頭を下げる。
「俺、行く場所がないんです。この通りです、お願いします」
ここに置いてもらえるならなんでもする。それくらいに、俺は切羽詰まっていた。
「意味わかんねえ。そんなんで誰かもわかんねえやつうちに置けるか」
晴希が吐き捨てるようにそう言う。それでも、俺は頭を上げなかった。
「お願い、します」
声が震えている。ここで追い出されたら、俺は本当に殺されてしまうかもしれない。あの晩はそれでもいいと思えたが、救われてしまうともういちど命を捨てる覚悟はできなかった。
「置いてあげればいいじゃない、お兄さま」
張り詰めた雰囲気の中で、気軽にそんなことを言ったのは月子だった。俺がはっと顔を上げると、月子は笑顔で晴希のほうを見ている。
「別に悪い人じゃないと思うわ」
「お前に何かあったらどうするんだよ」
「大丈夫よ」
苛立ちを前面に出している晴希を、月子は笑顔でいなしている。
「せめて、事情くらい言えよ」
晴希は俺のほうを睨みつける。俺はただ、首を横に振ることしかできなかった。
「いつか教えてくれるわよ。ね? 今は言えないだけよね」
月子の言葉に、俺はあいまいにうなずいた。勢いをつけてソファを降りた月子は、俺の隣に立つ。
「それに、隼也を見つけたのは私だもの。私がいいって言ったらいいの!」
月子の奔放すぎる言葉に、俺まで目を丸くした。晴希は自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回し、しばらく両手で顔を覆っていたが、やがて顔を上げると恨めしそうに俺のほうを見る。
「お前、家事は」
「で、できます。ひと通りは」
「この家の家事と、月子の面倒を見るなら家政夫として置いてやってもいい」
思わず表情が明るくなった俺に、晴希はただし、と付け足す。
「ちょっとでも変なことやったり、月子に何かしたら速攻追い出す。いいな?」
俺は犬のようにぶんぶんと頭を振って肯定した。月子も隣で嬉しそうにぴょこぴょこと跳ねていた。
「それと、月子には敬語使え。雇い主だ」
そう付け加えた晴希に、月子は別にいいのに、と口を尖らせる。晴希は月子の言葉を無視すると、ソファから立ち上がった。
「俺はもう寝る。布団もベッドも余分にないからしばらくそれ使え」
晴希はそう言い捨て、リビングを出て行った。
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