クリムゾン・フラグメンツ

砂塔ろうか

第1章 暁シズクと深紅の血のクローディア

第1節 はじめての決闘

01 / 契約(前)

 信号が赤に変わっても、横断歩道の白いラインの上では一匹の白猫が日向ぼっこをしたままだった。


 交通量の少ない交差点だ。車が来ないからと油断していたのだろう。


 けれど、来てしまった。

 焦る私たちの横をごうと追い越していくのは黒いセダン。速度は法定速度ギリギリと言ったところで、スキンヘッドの運転手が速度を緩める気配は感じられない。たぶんあの白猫の姿を見落としているのだろう。


 このままでは、あのネコは轢かれてしまう。


「チヨ、これ持ってて」


 隣の幼馴染にカバンを預けると、ぐ、と脚に力を込めて走り出す。今度は逆に私が黒いセダンを追い越して、横断歩道のところで90度回転。軸足で地面を蹴り、白猫を抱えて回収するとその勢いのまま赤信号の横断歩道を駆け抜け、アスファルトを削るようにして止まる。


 その時になってようやく、背後で車のブレーキ音が聞こえた。猫に気づいた、というよりは私が飛び出してきたのにびっくりして、といったところだろう。


 振り返ると、黒いセダンはクラクションを鳴らして走り去っていくところだった。

 減速したのは一瞬のことで、私に問題がないと見るやいなや知らんぷりか。


「シズクちゃん!」


 白猫と一緒にもやもやを胸に抱えて黒いセダンの後ろ姿を見送っていると、横断歩道の向こうから声がかけられた。


 三つ編みにした栗色の髪。細い金縁の丸メガネ。学校指定のダッフルコートに自前で用意したという黒のセーラーブレザー。紺色のミモレ丈のプリーツスカート。

 おとなしい文学少女のイメージが具現化したかのような私の幼馴染、月代つきしろチヨがそこに立っていた。

 大きな胸の前で心臓を押さえるように手をぎゅっと握って、チヨは肩で息をしている。不安にさせちゃったかもしれない。


「ぶい」


 そんなチヨに私は猫を抱えてサインを送った。大丈夫だって、安心させようとして。

 と、同時に猫に顔を引っかかれた。ふしゃーっと声をあげてするりと白猫は私の腕から抜け出ていく。そのまま私から隠れるように物陰へ入って……どこかへと消えていってしまう。


「シズクちゃんって、ほんと動物に嫌われてるよね♧」


 ちゃんと道路交通法を守って横断歩道を渡ってきたチヨが言う。その声色にはどことなく呆れの感情が滲んでいた。


「おかげで顔を引っかかれるのにも慣れたけどね」


 チヨからカバンを受け取りつつ答える。動物に引っかかれたり噛まれたりするのに慣れすぎて通学カバンには消毒液やガーゼや絆創膏、包帯を常備していた。さっと傷の消毒を済ませて大きめの絆創膏を貼る。

 よし。こうしておけば3日後には何事もなかったかのように回復してるだろう。


「……にしても、これまで何度も引っかかれてて傷一つ残ってないんだから凄いよね◇ シズクちゃんの肌。もちもちだし♡」


「ほ、ほっへふへふのふぁふぁへへほっぺつねるのはやめて……」


 ほっぺをつねられるのはいいが、力が強い。ていうかこれ怒ってるよね?


「んー? なんて言ってるのか分かんないなぁ♤ まあ聞こえてたとしてもやめるつもりないけどね♤ 仕方ないよね、私いっつも危ないことはやめてって言ってるのに、やめてくれないんだもん♤」


 駄目だ。今日はいつにもまして怒ってる。口調や言葉遣いこそ穏やかだが、語尾の雰囲気でわかる。トゲトゲしさが尋常じゃない。


 それから私は、いつものようにチヨのお説教を受けた。

 そしていつもと違って、チヨはお説教の締めにため息をついた。


「……ま、これだけ言っても聞かないのがシズクちゃんだもんね」


「………………」


 チヨが「今の」という言葉を使うときは決まって、昔の私を頭に思い浮かべている。

 私たちはしばらくの間、黙って歩道を歩いた。

 この一帯――玉兎市西部付夜山つくよやま地区は玉兎市の中では一番田舎って感じの地域だ。道幅は広く、道路の見通しもよく、畑や田んぼがあって、住宅はそんなにない。歩行者もそんなにすれ違わなくて、少なくとも今はチヨと私の二人きり。


「……ねえ。シズクちゃん」


「なに?」


「シズクちゃんは、なんでそんなに簡単に命を投げ出せるの?」


「別に、投げ出してるつもりはないよ。今回だって猫に引っかかれた以外、傷一つないわけだし」


「……じゃあたとえば、目の前で誰かがクマ……ううん。クマよりもっと怖い、バケモノに襲われていたとしても、同じことをする?」


「バケモノ?」


 急に随分と現実離れしたシチュエーションが出てきたな。


「うん。バケモノ。例えば……吸血鬼、とか」


「吸血鬼かぁ……」


 説明不要。ゾンビ、サメに並ぶ怪物フリークス界のレジェンド。ブラム・ストーカーの小説を契機とし、今日に至るまで様々なフィクションの題材となり続けている不死身の化け物。

 フィクションの題材になり過ぎて、単に吸血鬼というだけではどんな性質の吸血鬼をイメージしたらいいのか分からないまである。


「ここではそうだね……身体能力は超人的で、片手で人間の首を折れちゃう。日光は平気。にんにく、十字架、銀の弾丸も平気。心臓を潰さない限りあらゆる傷が再生して死ぬことはない、くらいに考えておいて」


 答えあぐねているとチヨが設定を補足してくれた。かなり具体的だ。そういうのが出てくる小説でも書くつもりなのかな。


 ちら、と横目でチヨの様子をうかがうと、落ち着かない様子で首の中程まである黒のインナーをつまんでは離してを繰り返していた。さっさと答えてあげるべきか。


「……まあ、うん。助けると思う」


「その吸血鬼の心臓を破壊しないと、安全が保証できないとしたら?」


 少し考える。きっとチヨが本当に問いたいのはこういうことなんだろう。

 ――人間の形をした化け物を殺せるのかどうか。

 考えて、けれどやっぱりソレが人間ではなく、あくまでも化け物だというのなら答えは一つだった。


「殺すよ」


「……どうして? 逆に自分が殺されちゃうかもしれないのに」


 目を閉じる。脳裏に浮かぶは、五年前の雪の日。冬の夜の肌寒さと、タバコのにおい。

 あの日、私は確かに約束した。人を殺さないと。


「助けられる命を見捨てることは、私がその命を殺したのと、同じことだから」


「…………へぇ」


 一瞬、肌が粟立つような感覚がした。


「チヨ……?」


 横を見ると、チヨも私を見ていた。すっと手を上げたかと思うと、


「いたっ」


 にっこり笑顔でデコピンされた。


「もっと自分のことを大切にしないと駄目だよ、シズクちゃん♡」


「むぅ…………」


「特に今は、吸血事件だってあるんだから♧」


「ああ。だから吸血鬼」


 ここ数日、この玉兎市では連日失血死体が発見される、という奇妙な事件が起きている。年齢性別にあまり共通点はなく、ただ一点、死因はすべて失血死ということだけが共通項だと報道されている。そのため犯人は吸血鬼なのではないかと冗談まじりに噂されているのだ。


「アレも変な事件だよねぇ。

 被害者がみんな失血死してるってことは犯人は失血死に何かしらのこだわりがあるんだろうけど、それ以外は杜撰っていうかこだわりが感じられないっていうか。

 どこかで血を抜き取って殺してから死体を遺棄してるはずなんだけど、死体の発見場所は人目につきやすいところ。山奥にでも遺棄すれば警察の発見を遅らせて、死亡推定時刻もわかりにくくできるだろうにそうしていない」


「おっ。語るねシズクちゃん♡」


「これでも刑事の姪ですから」


「刑事の姪なのに信号は守らないんだね♡」


「…………さっきのは、さ。不可抗力じゃない?」


「しょうがないなぁ。叔父さんには内緒にしといてあげる◇」


「ありがとうございます……!」


 なんてやり取りをしていたら、チヨの家が見えてきた。大きな門扉を持つ古めかしい武家屋敷。


 この辺は田舎ゆえに人通りが少ない。吸血事件のこともあるし、一緒にいたほうが良いだろうということでここ数日、私はチヨの家の近くまで一緒に下校していた。


「ありがとね、シズクちゃん。じゃ、気をつけて帰ってね」


「心配ありがと。また明日」


 夕闇の中、手を振って別れる。


 きっと明日もこんなふうに、チヨと一緒に下校するのだと――私は無根拠に信じていた。


 ◇◇◇


 帰宅する頃には、日はとっくに暮れて夜になっていた。


 叔父さんはまだ帰ってなくて、叔母さんは原稿が修羅場。そういうわけで、カオル兄さんと一緒に夕飯のナンカレーを食べる。


 カオル兄さんは近所の大学生だ。


 別段血の繋がりはないのだけど、今日みたいに二人の仕事が忙しい時はお世話になることが多かった。

 そんなある日「こうして見るとなんだか兄妹みたい」と叔母さんに言われたので、試しに「兄さん」と呼んでみたら自分でも驚くくらいしっくり来てしまい――以来、カオルさんはカオル兄さんだ。


 菫色の髪に銀色のメッシュを織り込んだ三つ編みの特徴的な人で、瞳は空のような青色と蒲公英タンポポのような黄色のオッドアイ。いつもありえないくらいのお守りやら数珠やらをつけてる。そんなにたくさんつけてたらかえって逆効果なんじゃないかってくらいに。


「どうかな、シズクちゃん。今日は自分で調合したスパイスを使ってみたんだけど」


「おいしいですよ。何年か前に閉店したインドカレー屋さんを思い出す味で」


 店主はパキスタン人だっけネパール人だっけなんて考えながら、バターチキンカレーにナンを浸して食べる。バターチキンカレーはマイルドな味付けで身体はポカポカするけれど口元がひりつくほどではない。


「……ただ、ちょっともの足りないかも。もっと辛いほうが好きです」


「そう言うと思って七味唐辛子とタバスコを用意してみた」


 思わずカオルさんの目を見る。カオルさんはウインクで答えた。私はタバスコをバターチキンカレーにぶっかけながらサムズアップで応じる。


 だいたいそんな感じで和やかな夕食の時間を楽しんでいた……その時だった。


「あ、電話」


 席を立ち、指をティッシュでぬぐってからスマホを取る。電話はチヨからだった。

 なんだろう珍しい。


「もしもし?」


『暁シズクだな』


 声の主は、チヨではなかった。ボイスチェンジャーを通したような、耳障りな声。


「誰!?」


 相手は私の疑問には答えず、淡々と用件を言った。


『玉兎東高校。部活棟三階。神秘探究部の部室に一人で来い。誰にも言わずにだ』


 そこは、私たちの居場所だ。


「どういうつもり? チヨに何を――」


 電話は切られた。と、同時に1枚の画像が送られてくる。


「――――っ!」


 ごく。と喉が鳴る。きっと緊張のせいだろう。

 送られてきた画像を拡大表示して確認する。頭から血を流して、椅子に身体を縛り付けられているチヨが、そこには写っていた。

 椅子の形状と辛うじて見える内装からそこが神秘探究部の部室であることは明白だった。


「なにかあった?」


「ごめんカオル兄さん。ちょっと出掛けてくる。カレーはラップしといて。帰ったら食べるから」


 コートを着て、カバンを持って玄関へ。カバンの中には包帯がある。チヨの応急処置に使えるかもしれない。その間、ずっとチヨに電話をかけてみたけれど駄目だった。応答はない。


「一人は危ないよ。僕も一緒に……」


「一刻を争うから」


 靴を履き、外へ出る。

 私のコレは明らかな異常で、だから誰にも言っていないのだけど……私は、本気の私より速く走れる人を見たことがない。


「シズクちゃ――――」


 カオル兄さんの声が急激に遠くなって聞こえなくなる。


 吸血事件なんてものが起きていても市街地には人が多い。人や車にぶつからないよう、時には塀の上、時には民家の屋根の上、あるいはビルの屋上。


 使える「道」はなんでも使って、最短最速で学校を目指す。


 果たして電話を受け取って5分後には、私は正門前に到着していた。全力疾走なんてめったにしないから足の筋肉が悲鳴を上げているけど、まだチヨの救出ミッションがある。休ませるわけには行かない。


 時刻を確認するためにスマホを点けたらカオル兄さんからのメッセージが何件も来てたので、「本当に大丈夫だから心配しないで」の一言とともにミュートする。ついでにスマホはマナーモードに。これで、準備はオーケー。部室に突入する準備は完璧だ。


 ……とはいえ。


「正門のところでふらふらしてるの、あれ警備員さんだよね……」


 服装からして間違いはない。上腕部に付いてるワッペンにも見覚えがある。

 ただ、その様子は異様だった。

 普通、見回りか何かで歩き回っているのなら背筋は伸ばしてしっかりとした目的意識を持って周囲を歩いているはず。

 それが今は、猫背になってうつむいたまま、あてどなく歩いているように見える。


 ――もし、脳の病気か何かだったら、命に関わる。


 見殺しにしたら、それは私が殺したも同じ。

 確認だけでも済ませておこう。


 閉ざされている正門の外から声をかけてみようと近づいて――――。


「――――っ」


 すぐに違和感を覚えた。


 違う。この人は何かが決定的に、違う。


 ぐるりと頭がこちらを向く。その双眸は血のアカに染まっていた。

 口からはよだれを垂らしたまま、拭うことすらせずに私に近づいてくる。


 ああ。そうか。何が違うと感じたのか、わかった。わかってしまった。


 こんなの常識的に考えて絶対におかしい。おかしいんだけど、でも、現に私の目の前に居る以上は、信じるより他にない。


 アレは――――。


 警備員が門扉の前で止まる。門扉は警備員の身長よりも高い。簡単には乗り越えられまいと見ていると、おもむろに柵の部分に手を掛けて、


 ぎぎぎぎぎ――――


 門扉に手で強引に人が通れるくらいの隙間を作ってみせた。


 まずい。逃げないと――いや、逃げていいのか? 本当に? あんな、放っておけば人を殺しそうな怪物を?


 校門から離れようとする足が止まる。気付けば、心臓の音がうるさいくらいに鳴っていた。

 振り返ると、校門から警備員が出てくるところだった。まだ動きは緩慢。今がチャンスだろう。

 逃げるチャンス? 否。アレを行動停止に追い込むチャンスだ。


 カバンをその場に落として、機を待つ。この雰囲気なら、たぶんあちらからこっちに近づいてきてくれるはず。だから、その隙を狙って――。


「………………」


 校門から出てきた警備員が、私を凝視する。こちらに身体を向け、そして走ってくる。


「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」


 その音は、鳴き声と表現することすら躊躇われる代物だった。

 幸いにも脚はあんまり速くないみたいだ。

 私は頭の中でこの先の動きをイメージして――――今!


「はァッ!」


 飛び上がってからの回転蹴りを頭部に打ちつける。確かな手応えと鈍い音。

 ずしゃあと警備員の身体は勢いのままにアスファルトの上を滑り、倒れる。


 ――――ああ、殺してしまった。


 でも。だけど。約束を破ったことには、ならないはずだ。


 だってアレはバケモノだ。


 鉄の門扉はこじ開けるし、言葉もなくこちらを襲ってきた。

 なにより、アレは死体だ。生きた人間から感じる何かが、アレには欠けている。


「あ、あ、あ」


「――――え?」


 振り返る。警備員は、首が折れたまま立ち上がっていた。しかも、私のすぐそばに。


 迂闊だった。動く死体が、首を折った程度で機能を停止するとは、限らないというのに。


 腕を、掴まれる。掴まれて、握りつぶされる。


「ぐ。う、―――――――っ!!」


 痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!

 脳に伝えられる痛みアラートの量は想像を絶していた。まずい、こんなところでこんなことしてる場合じゃ、ないのに――。


 その時、声を聞いた。


「心臓です!」


 はっきりとした、女の子の声だ。


「ソレは、心臓を潰せば殺せます!」


 心、臓――?


 ふと、今日の帰り道、チヨと交わした会話が思い出される。


 ――身体能力は超人的で、片手で人間の首を折れちゃう。

 ――心臓を潰さない限りあらゆる傷が再生して死ぬことはない。


 まさか、とは思うが今は時間がない。これ以上痛いのも勘弁してほしいし、なによりチヨが心配だ。


 無事な方の左腕で拳を作り、心臓めがけて打ち込む。


 踏み込みはできてないし、体重も乗せられてない。そもそも武術の心得なんて私にはないから、拳の打ち込み方自体褒められたもんじゃないだろう。


 それでも、どうやらなんとかなったみたいだ。きっと火事場の馬鹿力ってやつだろう。

 骨を砕き、筋繊維を破壊し、風船のような肉——心臓をぶっ潰したという確信。

 拳を引き抜くと、ぬと、とした体液だけがくっついていて、血はついてなかった。


 それを見て安堵する。やっぱり、コレは人間ではなかった――私は、人を殺していない。


「すごいですね。屍食鬼グールを素手で殺しちゃうなんて」


 私の背後に、降り立つ音。振り返れば、そこには全身真っ白な美少女が立っていた。雪のように白い肌。雪のように白いボブカットの髪。そして新雪に零れ落ちた血のような——赤い瞳。


 服は、冬にもかかわらず肩と胸元を露出した白いワンピース。


 胸は服に抑えつけられI字の谷間クレバレッジを形成している。十分な体積がなくてはこうはならない。素晴らしい発育ぶりだ。

 眼福すぎて潰された右腕の痛みを忘れそうになる。というか忘れた。


 ……いや、曲がりなりにも初対面の相手にこれは良くない。


「えっと、その恰好、寒くないの?」


「寒いですけど、まあ気合いで。そちらだってスカート短めじゃないですか。それと同じですよ」


「そうかなあ……?」


 私は厚手のタイツを履いてるからスカート短めでも平気だけど、あっちは素肌をそのまんま露出している。全然違うと思うけど。


「そんなことより、その腕、痛くないんですか?」


 さっき潰された右腕のことか。見れば、コートの袖口から血がぼたぼたとこぼれ落ちていた。手の感覚はない。


 痛いか痛くないかで言えば痛いんだけど……それでも耐えられてる理由を言語化するなら、


「見るモルヒネがあるから大丈夫」


「私の胸のこと言ってます?」


「そ、そんなわけ」


「さっきからずっと私の胸ばかり見てますけど」


 バレてた。「寒そうな格好してるから」と言い訳しようとしたけれど、さっき彼女の胸を——豊満な胸を——私は「見るモルヒネ」と言ったばかりだった。言い訳の余地を自分で潰してる。


 閑話休題。


「ところで、あなたは誰?」


「私は、クローディアと言います。ここには、屍食鬼グール——あなたが今戦った怪物を討伐するために来ました」


「————屍食鬼グール?」


 屍食鬼グールというのはたしかアラブ人の伝承に出てくる怪物だ。体色や姿かたちを変えることができ、人間に化けるという。墓を漁って死体を食べることから、日本では「屍食鬼」や「食屍鬼」といった漢字が当てられている。


 あるいは、クトゥルフ神話だろうか。あれにもグールという化け物は登場する。

 墓を漁り死体を食べる、という点は同じだが、こちらのグールの外見は蹄を持ったイヌのような姿をしているという。……まあ、これは完全にH.P.ラヴクラフトの創作だから、一旦忘れてもいいか。


「グール、というと色々思い浮かぶかもしれませんが……ここで言う屍食鬼グールとは、吸血鬼に血を吸われ、吸われ尽くして亡くなった方の、成れの果て。端的に言えば歩く死体です」


「吸、血鬼……?」


「ええ」


 クローディアちゃんがこちらに近寄ってくる。

 自然に、ごく自然に。その何気ないステップを、私は見てることしかできない。

 それはつまり、白くハリツヤのあるおっぱいが近づいてくるということでもあり。


 ごく、と。知らず、生唾を飲んだ。


「……その腕、治したいですか?」


 唐突に、そんなことを言う。辛うじて残った理性が言葉を返した。


「は、挟ませてくれるってこと……?」


「いきなり知能指数を下げないでください」


 はあ。とため息をついてクローディアちゃんは私の顔を掴むと、ぐいっと視線を上げさせる。


 あ、こうしてよく見ると顔も良い。まつ毛は長くて、顔は小さくて、パーツの全部が整っている。そして、その瞳は宝石のように紅く、綺麗で――。


「私と契約し、奉魂決闘ほうこんけっとうにともに参加してくれるのであれば、治せますよ。その腕」


 クローディアちゃんは唐突に、そんなことを言った。


「ほう、こん……?」


「魂を奉ずる決闘と書いて、奉魂決闘。端的に言えば吸血鬼と人間のコンビで参加するバトルロイヤルですね。参加者同士で戦い、最終的な優勝者を決める。そして、優勝コンビは願いを叶えることができる——漫画やアニメでよくあるやつです」


 そう言われると急に俗っぽくなったな。

 だけど、その話が本当なら。

 チヨはもしかすると、それに巻き込まれたのかもしれない。


「……それって、契約って、すぐに終わるの?」


「何か急ぐ理由が?」


「チヨが——友達が、誰かに捕まってる。犯人もろともたぶん、学校の中にいる」


 そう。私はそのために、今ここにいるのだ。


「犯人と対決するなら、腕を治しておけた方がいいと思うから……やるなら、さっさと済ませたい」


 奉魂決闘、だなんて。勝てば願いが叶うバトルロイヤル、だなんて。

 あまりにも現実離れした話で、心の底から信じられたとは言えないけれど——屍食鬼が存在することは事実で、クロちゃんの言葉にも説得力があった。

 だからきっと、その契約すれば腕が治るという話も、本当なのだろう。


 ——それに。


「もしかしたら、チヨを襲った犯人もその儀式に参加してる——かもしれないし」


 状況証拠的には、そう考えるのが自然だ。学校に拉致されたチヨに、学校にいる屍食鬼。


「そうですね。屍食鬼は自分の血を吸った吸血鬼の傀儡かいらい——操り人形でもあります。見張り代わりに警備員をここに置いた——という可能性は高いかと」


「じゃあ——」


 さっそく契約を、と急かそうとして唇に何かが当たった。クローディアちゃんの人差し指だった。


「その前に、一つ。儀式に参加する吸血鬼——真祖の断片は不死身です。屍食鬼のように、心臓を破壊すれば殺せる、というものですらない。……だから、もし対決するなら奉魂決闘のやり方に準じて、互いの魂を賭けて戦うことになります」


 クローディアちゃんはそこで言葉を切って、一呼吸。


「————あなたに、自分の魂を差し出す覚悟はおありですか?」


「もちろん」


 考えるまでもなかった。


 クローディアちゃんは満足げに笑みを浮かべると、私に抱きついてきた。


 かぐわしい香り。女の子のにおい。それだけでも十分心臓が破裂しそうになるのだけど、それに加えて胸には彼女の豊満なおっぱいだ。心臓どころか全身の血管が破裂してもおかしくない。

 足下を見ると、クローディアちゃんの足が震えていた。すこし背伸びしてるらしい。そんな姿に愛おしさを覚えて——


 ————首筋に鋭い痛みが走る。


 ほんの一瞬。あとは煙が広がるように気持ちよさが全身に広がっていって、思わず脱力してしまう。

 ごく、ごく、という嚥下する音が聞こえたかと思うと、クローディアちゃんの身体が少しだけ離れて、快感の余韻が優しく私を犯していく。

 頭に霞がかかったように思考が上手く働いてくれない。


「口を、開けてください」


 言われるがままだった。彼女の顔が近付いてきて、私の口に、柔らかな唇が当てられる。

 なにか、あたたかな液体を流し込まれる。唾液……だけじゃあない。このここちよい鉄錆のにおいは————血だ。

 霞がかかった頭では理性はショート寸前で。だから本能の私は喜んでその血を呑み込んだ。


「これで、契約は完了です」


 私の中にはまだ、彼女の血の余韻が残っていた。

 冬の風に首筋の温度を奪われて、私は徐に首筋に手を当てる。ぬとりとしているのは、クローディアちゃんの唾液か。


 ああ、そうか。私、血を吸われたんだ。


 首筋に触れた手を見れば、街灯の光反射して光る中に、ほんのわずかな赤を認められた。

 自分の血はおいしくないんだけど……もしかしたら、クローディアちゃん——長いからクロちゃんって呼ぼう——の唾液と一緒ならおいしいのでは。


 ぱくり。味見してみる。


「なにやってるんですか!?」


 クロちゃんにすんごいドン引きされた。

 当然だ——と思う一方で、指を啜るのが止められない。彼女の唾液には違法薬物でも含まれているのだろうか。


「…………ああ、そっか。吸血したあとって人によっては多幸感でバカになるって言われてたっけ。ええと正気に戻すには……たしか、」


 クロちゃんが私の手をとる。あたためるように両手でぐっと包み込んでくれた……かと思ったら。


「いっ…………だぁ………………っ!?」


 手のひらに激痛が走った。


「な、なに突然!?」


「よかった。正気に戻りましたね」


 見れば、手のひらにボールペン大の穴が空いている。血がだばだば溢れ出ていて見るからにヤバい。


「えっこれクロちゃんがやったの!?」


「クロ……まあ、はい。正気に戻すには痛みがてっとりばやいらしいので」


「ど、どうやって!? 今何も持ってなかったよね!? てかせめて指先に針刺すくらいでも良くない!? これ、包帯巻いてどうにかなるレベルじゃ……」


「——デモンストレーションにもちょうどいいかな、と。ほら、傷口を見ててください」


 言われ、一応傷口を見る。


「それって一体……どう、いう………」


 穴が、塞がりつつあった。まるで逆再生の映像のように。

 筋肉などの皮下組織、真皮とできて、最後に表皮が貫通箇所を何事もなかったかのように覆う。

 そうして、あとには傷痕さえ残らない。


「……………治った?」


 そういえば、元々腕を治せるって話で契約に同意したんだったっけ。

 見れば、握り潰されたはずの右腕はいつの間にか治ってる。ついでに、袖口を重くしていた血はきれいさっぱり消えていた。


「このように、契約者になると肉体の治癒能力が尋常じゃないレベルで強化されるんです——端的に言えば、不死身ですね」


「……不死身」


 クロちゃんは静かに微笑んだ。


「吸血鬼も人間も参加者は皆不死身——それが、奉魂決闘というわけです」


(続く!)

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