断章 / 雪の日の約束
誰が? 自分が。
だって、どう考えても自分はおかしい。普通じゃない。検査入院ということで色々と身体を調べてもらっていて、それなのになに一つ異常が見つかっていないのは、病院側の職務怠慢なんじゃないか——そんなことを言いたくなるくらいに、自分自身の認識では、異常は明白だった。
力が異常だった。スピードが異常だった。けれどそのくらいなら、私も明日を怖がらない。
最も恐ろしく最も顕著な異常——————————それは認識だった。
人を見ておいしそうだと思う。食べたいと思ってしまう。
だから、自覚はあった。私は普通の人間じゃない。きっと私は————バケモノなんだって。
怖かった。ある日うっかり差し出された手に噛みついてしまうのが。
恐ろしかった。どんなに食べても決して満たされないお腹が。
飢えを満たすには、どうすればいいかは本能的にわかっていた。
人を食べればいい————。
結局、食べたいと思うものを食べるのが一番だと。
だけど、そんなのは嫌だったから。叔父夫婦も幼馴染も看護師さんやお医者さんも、みんな好きだったから。だから。
————私は命を絶つためにその夜、病室の窓から抜け出して屋上へ向かった。
そこで、運命を変える出会いが待ち受けているとも知らず。
◇◇◇
その夜はちょうど雪が降っていた。手がかじかんで、吐く息は白くて。けれど私は、どうにか病院の屋上に外壁伝いに到達できた。
フェンスに背をもたれかけて、下を見る。
高さは十分なはずだ。ここから落ちればきっと——そう、たとえバケモノであろうと十分に死ねる…………はず。
そう思うと少しだけ名残惜しくなって、顔を上げた。
冬の夜。街には人の活動の証たる明かりがまだ、こんな夜遅くにも点々と灯っている。
きっとその光景はどこの街にもある、ありふれたものだ。
テレビで特集されたり大人が高いお金を払ってまで見たがる「夜景」とはまるで違う——平々凡々としていて雑多な景色。
だけどそれが、あまりにも綺麗で。
すぐには一歩を踏み出せなかった。
「なにやってんの、このバカ……!」
声がしたと思ったら、ひょい、と私は
背後を見ると、そこには背の高いおねえさんが立っていた。黒髪に赤と黄のオッドアイ。神秘的な印象と煙草のにおいを漂わせる人だった。
——というか、神秘的もなにもなかった。私の服を掴むおねえさんの手は、フェンスを貫通していた。
私をフェンスの内側に下ろすと、おねえさんは肩で息をしながら、私を叱責した。
「屋上のフェンスを乗り越えるだなんて、死にたいの!? ていうかいつの間に屋上に……」
「ち、違う」
「……?」
「屋上まで、登ってきたの。だから、フェンスの外側には、最初からいたの」
「………………寒かった、でしょう」
「うん」
「どうして、そこまで……」
「ここからなら、死ねると思って……」
そう言うと、おねえさんはそれはもう嫌そうな顔をした。
「あー…………とりあえず、話聞かせてくれる?」
私は、自分でもびっくするくらいにあっさりと、おねえさんに全てを打ち明けていた。
それはおねえさんの纏う浮世離れした雰囲気が理由だったのかもしれないし、あるいは、フェンスを貫通させるなんていう常識の埒外にある芸当を当然のようにやって見せた彼女なら、荒唐無稽なこの話を信じてくれると思ったのかもしれない。
信じて、その上で真面目に向き合ってくれると。
「……なるほど、ね。」
おねえさんはコートのポケットに手を突っ込みながら、たどたどしい私の話に最後まで耳を傾けてくれた。
——看護師さんが、おいしそうに見える。
——普通のご飯をどれだけ食べても、お腹がすく。
——ヒトを、食べる夢を見る。
——きっと私はおかしい。私はいつか、人を殺しちゃう。
そんな吐露を黙って聞いて、否定も肯定もせず、ただ受け止めてくれた。
そして、フェンス際に移動して寄りかかると、タバコに火をつけた。タバコを吸って、ふうっと白い煙を吐く。
「……あなたは、それでもヒトを食べたくはないの?」
おねえさんは真剣な声で言った。
「うん。いやだ。……私のおじさん、お巡りさん……警察官なの」
「だから嫌なの? おじさんのキャリアに傷がつくんじゃないかって?」
「きゃり、あ……? たぶん違う。……私、おじさんをがっかりさせたくないの。警察官ってことは、おじさんは良い人でしょう? 良い人は、自分の身内から悪い人が出るのを喜ばないと思うから。だから、」
「だから、死ぬ? 良い人は自殺も喜ばないと思うけど」
「でも、死ぬのは私一人で、誰の迷惑にもならない」
……幼い私は本気でそう思っていた。
実際のところ、あのまま私が死んでいたら病院としてはかなり大きな問題となっただろう。きっと色んな人に沢山の迷惑をかけることになっていたはずだ。
もっとも、それは私があの頃よりも少しだけ大人に近付いたからこそわかることであり、当時の私は、本気で誰にも迷惑がかからないと思い込んでいた。
きっと、おねえさんはその誤謬に気付いていたはずだ。けれどおねえさんは指摘するかわりに、タバコを吸った。
「……あと、おじさんなら注意したと思うから言うんだけど、ここ、たぶん禁煙だよ」
「そういえば病院だったわね、ここ……」
コートのポケットからアルミケースを取り出すと、おねえさんはそこにタバコの先をぐりぐりとやって、吸殻をねじこむ。
パチンとケースに蓋をして。
「死ぬつもりであなたがここに来たってことはわかった。……だけどさ、やっぱり死ぬのは怖いんだよね」
「…………!」
「だって本気で死にたいなら私が気付く前に屋上から即飛び降りてたはず。躊躇したのか身が竦んだのか……とにかく、すぐに飛び降りることができなかったなら、あなたの中にはまだ『生きたい』と思う心が残ってる——そう、私は解釈する」
「…………うん」
否定は、できなかった。
「つまり、誰も殺さず、かつ自分も死なずに済む方法があるならそれが最善ってわけね」
「ある、の? そんな方法が……」
「ふふ。年長者を舐めないでちょうだい」
おねえさんは得意気に笑うと、
「……みんなを騙すの」
コートのポケットから一冊の文庫本を取り出した。
「ちょっと変わったところはあるけれど、自分は普通の人間だよって。いつの日か、その嘘が本当に変わるまで、ね」
よれよれの文庫本の表紙にはこう書かれていた。
「『シラノ・ド・ベルジュラック』……?」
「これをあなたにあげる。その物語の主人公、シラノはきっとあなたの心の道標となってくれるはずよ」
言われるがままに私は受け取った。
「シラノ……?」
おねえさんはひとつ頷いて言った。
「戯曲って言ってね。要は劇の台本なの。だから、普通の小説より読みやすいと思うわ。……ま、なにも『シラノ』に限らなくても良いのだけど。とにかく、物語や
「…………そんなこと、言われたって」
食べたいものは食べたいんだからどうしようもない。
今までだって頑張った。だけどどうにもできないと思った。
これ以上はもう、耐えられないと思った。
だから命を絶つことにした。
できるかできないかは問題じゃない。
命を絶とうとしなくては、自分が良い子だと証明できない。だから、命を絶つのだ。
取り返しのつかない
「ちっ。強情ね。それなら――」
突然、おねえさんは私の口に冷たい人差し指をつっこんできた。
「どう?」
——と、問うてくる。
それからしばらくして、おねえさんは指を引き抜く。
「……私のこと、食べたくなった?」
「————あ」
言われて気付いた。食欲が、おねえさんに対してはまったく湧かなかったことに。
「つまり、変に我慢しなくてもあなたは人を食べたくならずに済むこともあるの。あとは、自己暗示とか妄想とかでその対象を拡大していくだけ」
「でも、食欲が湧かないのはおねえさんがタバコを吸ってるからじゃ……不健康そうだし……」
「はいはい。それじゃあ私は禁煙します。私は喫煙衝動を、あなたは食人衝動をこらえる。これでフェアでしょ?」
なんにもフェアじゃない気がしたが何を言っても無駄だと思ったので口を噤んだ。
「んっ」
おねえさんは小指を差し出してきて、
「約束! 自殺しない、人を食べない、殺さない。上手いこと現実逃避でもなんでもしてこなしてみせるって、約束して。……ついでに、私は禁煙するって約束してあげるから」
「…………もし、わたしが約束を破ったら?」
——自分には人並み外れた膂力がある。その自覚があったからこそ、私は怖かった。
食人衝動に呑まれて、力を抑えなくなった自分を誰が止められるのかと。
「その時は、そうね」
きっと、そんな私の不安を見抜いていたのだろう。
おねえさんは迷いなく、私を安心させるように、穏やかに。微笑んで言った。
「私が、あなたを殺してあげる」
その言葉に、なぜだかとても安心した。
この人なら間違いなく、本物のバケモノになってしまった私を殺してくれる。そう、確信できた。
そして同時にもう一つ。直感したことがある。
——ああ。この人は、そのあと自分も死ぬんだろうな、と。
「わかった。ゆーびきーりげーんまん」
「うーそついたらはーりせんぼんのーますっ」
「「ゆーびきった!」」
それから私は、おねえさんの壁や床を通り抜ける不思議な力で病室へ戻った。幸いにも、その道中、誰にも見つかることはなかった。
貰った……というより押しつけられた『シラノ・ド・ベルジュラック』に栞がわりに錆びたような奇妙なカード——【無名の霊札】が挟まっていることに気付いたのは、その翌朝のことだった。
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