25 / 穢れ

「チ、ヨ………………」


 金色の瞳に金色の角。チヨがもはや人間ではないことはすぐにわかった。


 けれど私の感覚が正しければその前、姿が変わる前からもう、チヨは人間ではなかったはず。そうでないと、私がチヨに食欲を抱かなくなった説明がつかない。


 だから、こちらに近づいてくる足音に問うた。


「いつから……?」


「この準備をしていたのかって? 計画自体はずっと前から。……蠱毒の儀式によって得た毒を、少しずつ身体に馴染ませていったの。中学生の頃から、誰にもバレないようこっそりね」


 そんなに前から……?


「だけど駄目だね。まだまだ、足りなかったみたい。おかげでさっきもちょっと死にかけちゃったし……ああそうだ」


 チヨは屈み込んで訊いてくる。顔に笑みを貼りつけて。


「シズクちゃんなら気づいてるよね? 私の血のにおい」


「…………っ」


 身体が、言うことを聞いてくれない。傷はとっくに治ってるはずなのに、動かない。


「あらら。穢れに圧倒されて口がきけなくなっちゃったかな? ま、教えて欲しそうな顔してるから教えてあげようかな――そう。この血のにおいは私のもの。私、さっき人を殺してきたの」


 チヨはゆっくり、かつ、はっきりと告げた。


「二十人。首を落とした」


「――――――っ」


「噴水みたいに吹き出す血を裸で浴びて、誰かの血で汚れてないところなんて一つとしてない。そういう状態になって、私は契約をしたの。この国に、かつて災厄をもたらした存在と」


 どうして、そんなことを。


「なんでって言いたげな顔だね。でも理由ならわかるでしょう? さんざん教えてあげたもんね。……そう。シズクちゃん――本物のシズクちゃんと再会するためだよ」


 それで満足したのか、チヨはこちらに背を向けて歩いていく。

 その背中に、私は声を掛ける。


「そん……っ、そんなの、暁シズクは望まな――」


「知ってるよ」


 ぴしゃりと言われてしまった。


「そんなことはわかってる。だからこれは、私があの子にまた会いたいっていう……ただそれだけの話」


 空を見上げ、チヨは言う。


「奉魂決闘の永続化は叶った。見てよシズクちゃん。この空を」


 言われるがままに見上げ、私は言葉を失った。


 月が、空に浮かんでいる。血のように真っ赤な色をした三日月が。


「アレは真祖の月。本来であれば、決闘空間にのみ現れるはずの、間違っても、現実世界には出てこないはずの代物」


 チヨは歌うように言う。


「いま、この日本くにで少なくない人が、あの月を見ている。そうして、その人達は否応なくこの儀式に参加させられるの。……儀式は混沌を極め、ここから先、この国がどうなるかわからない——世界が滅びる前の余興としては、とっても素敵だと思わない?」


 両手を広げ、地面を蹴って、くるりとターンする。その時だった。


「——いいや。まったく」


 言葉とともに風を斬る音がした。


 ぼどっと鈍い音がして、参道にチヨの腕が落ちる。


 チヨの向こう側に、その男の人はいつの間にか立っていた。


 闇夜に紛れるような黒のスーツ。ポニーテールの黒髪に黒の眼帯をした若い男性。シルエットは細身だが、その筋肉はよく鍛えられ、引き締まったものであることが一目で感じ取れた。


 キンッ。という硬質な音とともに、男は刀を納刀する。

 チヨの右肩から血が吹き出したのは、ちょうどそのすぐ後だった。


 右肩を抑え、チヨが男と相対する。


「————っ! 黄泉路守り!?」


「おや。月代の後継者ともあろう者がボクらを黄泉路守りと間違えるなんてね」


 男が抜刀の構えを作る。


 と、同時。空から音がする——この独特な音は、ヘリコプター?


「まさか、公安——? アカリちゃん、公安にまで通報してたんだ? なりふり構わなすぎでしょ」


「君には権利がある。大人しく任意同行するか——ボクに今、ここでバラバラに斬られて、署内で再生するかを選ぶ権利が」


「あはっ。そんなの逃げるに決まってる——じゃん!」


 チヨが右肩を男に向ける。と、肩から血に混じって黒い靄のようなモノが飛び出す。


 あの威圧感、間違いない。チヨの身体から感じる正体不明の圧迫感の源は、アレだ。


 アレがなんなのか、私にはわからない。けれど直感する。きっと、なんの備えもなくアレに触れれば、ヒトは死んでしまうのだと。


 チヨは言っていた、アレを身体に馴染ませるために準備していたと。準備をしていたのにとても苦しそうだった。

 なら、準備をしていなかったらどうなるのか。


 ——動かないと。


 そう理解した時、私の身体はすでに走り出していた。


 さっきは、アレの気配を全身に纏ったチヨを相手に少しも動けなかったというのに。それでも私の身体は動いていた。


 たとえその行いが無意味に終わるとしても、私はあの人を助けないといけない。


 ——誰かを見殺しにしたら、それはきっと、私が殺したのと同じことだから。


 最短ルートでチヨの身体を回り込んであの刀を持った男の前へ——


 その時だった。


 ボン! と音を立ててどこかで小さな爆発が起こる。


 チヨの身体が不意に回転する。男に殺到しようとしていた黒い靄は軌道を変えて、逸れる。


 そして、次の瞬間。


「あああぁぁぁぁぁぁ————————っ」


 悲鳴を聞いた。


 声のした方へ首を向けると、口から血を流したセーラー服の少女が立っていた。クロちゃんだ。


 続けて、背後からビリッという音がした。和紙を破るような。

 強烈な光。背中を向けていたので目が眩むことはなかったが——光に照らされたことではっきりと見えてしまった。

 クロちゃんの身体が絶え間なく全身の表皮から出血している。それだけじゃない。手が、青く変色しつつある。


「……なにそれ。ふざけないでよ」


 吐き捨てるようなチヨの言葉が地面の方から聞こえて——光が消えると、もう、参道にチヨの姿はなかった。


 影だ。


 クロちゃんの部屋から逃げた時と同様に、チヨは影に潜ることでこの場から逃亡したのだ。今の光は、おそらく影を作りだすために放ったもの。


 ——逃げられた。


「なっ——おい! 大丈夫か!」


 その時、男の声がした。


 見れば、彼は倒れたクロちゃんの方へと走り、その肩を支え、身を起こした。そうだ。今はチヨのことばかり考えているわけにはいかない。


 私もすぐ隣へ向かう。


「なんでボクを庇った! 黒沼セラ! 直感的に分かるだろ! あの穢れを生き物が浴びたらどうなるかぐらい!」


 クロちゃんはひゅーっひゅーっと音を立てながら、答える。


「ごふっ…………だから、です」


「はあ?」


「人助けなら……自殺に、ならないと……思っ……て」


「まさか、クロちゃん……」


 そんなに、死にたかったの? とは言えばかった。


 クロちゃんが顔を上げる。力なく笑みを作って言う。


「シズ、ク……さん。よかった……」


 ——まさか、あの状況で私がこの男を助けようとすると踏んで、そうはさせまいとして?


「回転、させる……方向、賭けでしたが…………ご無事で、なにより、です」


「無事……いや、私は大丈夫だけど、クロちゃんが!」


 クロちゃんが震わせながら、手を上げようとする。私はその手を握った。


「はい……ちょっと、出力不足、でした……こんなに、浴びる予定じゃ、なかったんですけど」


 わかる。彼女が急速に不味そうになっていくのが。命が失われようとしている。あるいは不可逆の変質を起こそうとしている。


 クロちゃんが、手を握り返してくる。


「……罪滅ぼしには、足らないです、けど」


 目が、閉じられる。それきり。それきりなにも、言わなくなって。


 手が冷たいのも、冬のせいじゃないことはなんとなくわかって。


「……あの、」


 だから私は、黒スーツの男に尋ねた。


「彼女を蝕んでる黒いやつって、私に移せませんか?」


 男は一瞬驚いたような顔をして、それから真剣な表情で答えてくれた。


「無理だ……穢れを移すには、相応の準備がいる。それに、穢れを移せば死ぬのは君だぞ?」


「最悪、それでも構いません」


「構わない……と言われてもなあ」


 男は困った風に頭をかく。


 無理なのか? このまま、クロちゃんが死んでいくのを見ているしかないのか……?


「――吸血だ」


 と、聞き馴染みのある声が言った。


 空から一人の男が降りてくる。

 三つ編みの男。菫色の髪に銀メッシュが入っていて、首元や腕にアクセサリーをじゃらじゃらと付けた――否。私は知っている。それがただのアクセサリーではないことを。

 それはお守りや護符の類。そうしたものを、ありえないくらい雑多に大量に身につけた男性を、一人知っている。


「シズクちゃん。君が彼女を救いたいと望むなら、君が彼女の血を吸うんだ」


「あ、穢前あいざき!?」


 黒スーツの男が驚愕の声で言う。


 穢前――? それは確か、アカリいわく最強の助っ人の名。


 …………まさか。この人がそうなのか。


「カオル兄さんが、穢前……?」


「その話は後回し。今は、黒沼セラを助けたいんだろう? なら、彼女の血を吸うんだ」


 たしかに、今はそんなことを気にしてる場合じゃない。


「待て! ただ血を、穢れを吸うだけでは死ぬのが君になるだけだ!」


 黒スーツが止めようとするが構わない。


 クロちゃんを助けられるなら死んでも構わないから? 違う。私だってこのまま死ぬのは御免だ。だけどここには、穢前カオル兄さんがいる。


 アカリが呼んだ最強の助っ人である穢前を。そして私が兄のように信頼するカオル兄さんを、私は信じる。


「あとは、僕が上手いことやる。だから、思いっきりやってくれ」


「了解」


 短く言って、私はクロちゃんの首筋に牙を突き立てた。


 ——ワインに一滴でも泥が混じれば、それはもうワインではない。


 そんな比喩を思い出す味だった。


 私が食べたクロちゃんは、もっと美味しかった。あの奥の間で食べた彼女の肉、彼女の血の味は間違いなく今まで生きてきたなかで最高級の美味だった。


 脳髄が蕩けて理性が屈してしまいそうになるほどの、味わいだった。


 それが、今はこんなにも不味い。


 汚泥と腐肉をミックスしてもこうはなるまいという味わい。快楽なんて少しも感じなくて、嫌悪感だけが濁流のように私の中を荒れ狂う。


 やめたい。やめたい。どうしてこんな不味い血を飲まないといけないのか。

 すぐそばに、もっとおいしそうなにくがあるというのに。


 こんなの捨てて、隣の肉にかぶりつこうよ。


 頭の中で声がする。


 おいしいよ。口直しにちゃんとした血を飲まないと駄目だよ。大丈夫、辛いカレーを食べるときに間にラッシーを飲むようなものだから。おいしいよ。一口飲んだくらいじゃ人は死なない。おいしいよ。腕がなくなったくらいじゃ人は死なない。食べたい。片目がなくなったって生きていける。食べたい。


 ——うるさい。


 ほら、身体が痛くなってきた。身体に悪いものを食べるからそうなる。ちゃんとしたものを食べないと、保たない。


 ——うるさい。


 頭の奥が鈍く痛む。喉は焼けるように熱く、胃はただただひたすらに苦しい。もはや身体が、クロちゃんの血を受けつけなかった。

 なんども嘔吐しそうになって逆流して、それを吸い出した血で胃に戻す。


 もっとおいしいお肉が、すぐそばにあるのに。


 私は、どうして。


◆◆◆


 少女の声を、聞いた。


 ——ねえ、クロちゃん。クロちゃんはわたしよりも長生きするよね?


 それは、どこかで聞いたことのあるような声で。


 別の声が戸惑うように言った。


 ——なに言ってるんですか。シズクさんだって。


 ——無理だよ。お母さんもヴァレンタインも、わたしの寿命を伸ばせるって信じてるけど、わたしにはわかる。そんなこと、絶対に起きっこないって。


 ——シズクさん……。


 ——でもね、誰かの記憶の中でなら私は永遠に生きられる。だからお願い、セラ。


 映像が、見えた。黄昏時。黒髪の少女がこちらへと振り向いて、儚げにはにかむ。


 ——私のこと、忘れないで。そして、私の分まで長生きして。


◆◆◆


 にわかに湧き上がる感情。それは怒りだった。


 あんな願いを受けておいて、しかも、それを忘れることさえ禁じられていたというに、自殺を望んでいたというのか。


 この願いから、ずっと目を逸らしていたというのか。


 たしかにクロちゃんは許されないことをしたのかもしれない。罪を犯したのかもしれない。だけど、だからって、託された願いから目を背けてまで死んでいいはずがない。


 ——そうだ。だから私は、彼女を生かす。


 彼女が生存することで、自身もまた生き続けられる——そんな欺瞞を希望とした女の子がいたから。

 暁シズクの残滓、あるいは残骸に過ぎない私には、そうする義務がある。


 もう、声は聞こえなくなっていた。


 血が不味いことなんてどうでもいい。


 私は穢れを吸い出す。クロちゃんを、生かすために。


◇◇◇


「————!」


 ……………………ふと、呼ばれた気がした。


「————! ——————!」


 どん、どんと身体が揺れていることに気付いて、目を開ける。


「もう、十分だ」


 ぐい、と身体が引き剥がされる。


 私はその場に倒れ込んだ。


 セカイが暗い。モノの輪郭が、ぼんやりとしか認識できなくなっている。


「これから、君たち二人の間にパスを通す。これにより穢れは君たち二人の間を流動し、君たちへの影響は最小限のものとなるだろう」


 遠くから聞こえるような、歪んでいるような——ヘンな感じだけど、声は聞きとれる。


「天路くんも手伝ってくれ。上司に叱られたくはないだろ?」


「わ、わかった……」


 身体の感覚が、ない。

 ヘンな感じだ。まるで、目と耳と鼻だけの生き物に、なってしまったかのような。


「シズクちゃん。今は安心して、眠ってていい。君の信頼に、僕も全力で報いるから」


 ……なら、いい、か。


 目を閉じると、急速にすべての感覚が消えていった。




(続く!)

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