陸 『悪戯娘』

 神の御業でも無く力技で牢を脱した後は、北亀と共に後宮へ戻る。外は暮合くれあいで、硃膘チューピャオ色に染まっていた。


 右へ左へ、機嫌良く曲がる。

「あら? 此処ここ何処どこかしら」

 気が付くと、其処そこは見知らぬ宮だった。

如何どうしましょう、北亀。わたくし迷ってしまいましたわ」

『だいじょーぶ。後宮程度の構造なら一通り覚えてるよ』

 不敵に笑み、『小霰は黒曜宮からほとんど出てないもんねぇ』と苦笑する北亀。相も変わらず神という生物は何処どこか人の子とは一線を画す処が多いようだ。

「だって、れは……。中級妃の茶会や上級妃らの集いにわたくしが呼ばれないからで、って、北亀! 貴方今、わたくしの事を独法師(独りぼっち)引籠ひきこもりだと心の中で笑ったでしょう⁉」

 慌てて言訳いいわけを用意する霰琳は、話の途中でも北亀の些細な変化に気が付いた。

『あは、分かった? 流石は小霰』


 北亀の指示通りに歩いてゆくと、見知らぬ宮に辿り着く。

 の後宮で唯一東西南北に属していない宮、宝媓宮殿ほうこうぐうでんである。

「何だか娯しくなる気がするわ」

 胸を躍らせてかたっと木製の扉を開けると、其処そこには空腹感を刺激する料理の数々。

「まあ、美味しそう……」

 元淑妃ではあるが、ろくに食事を取れた事等は大凡おおよそ無い。

『ちょっと位なら、食べてもいいんじゃないかなぁ?』

 悪魔の声……もとい、神の声に誘惑されて、餃子を壱個だけ口に運んでしまった。

「美味しいわ」

 素直に零れた感想との味を噛締かみしめる事無く、先程閉じたはずの扉が開く。

「あ」

「誰だ、お主は」

 其処そこに居たのは、一国の主たる皇帝の人だった。名をイー 陽臙ヤンイェンという。

 新しい玩具を見つけたかの如く霰琳の瞳が輝いたのを、姿を消した北亀は見逃さなかった。

「あら、れはれは天子様ではありませんか。御久しゅう御座いますわ。わたくし、元淑妃の黎 霰琳と申します」

 最大限礼儀作法は学んでいる。皇帝に鉢合わせした処で何ら問題は無い。

 右の手で拳を握り、左の手で其れを包み込む様にして美しい拱手きょうしゅ礼の形を取った。

「……ほう、黎族の淑妃か。して、お主は余に一度顔合わせした身で有りながら、何故なぜ再度己を名を申した?」

「んふふふ。可笑おかしな事を御訊きになるのね。きっと、天子様はわたくしの事等覚えていらっしゃらないと思いましたから」

 皇帝にの様な無礼を働く事は万死に値する。れを百も承知の上で、霰琳は娯しく会話を続けていた。

れは当ってる。勘か?」

「ええそうですわ、自身の感覚に頼って此処迄ここまで生きてきていますし」

 他に何か、とでも言わんばかりに笑みを向ければ、帝はおもむろに霰琳の側の玉座に座る。

「主上‼」

 焦った様な声が次々と側近らから放たれ、皇帝は眉間に皺を寄せた後に彼らを手で制した。

「霰琳よ。お主が妃らにいびられていると聞いて居るが」

「嗚呼、れならばきちんとやり返してりますわ。今の処、わたくしの仕業だとは露見していませんので特に問題は無いでしょう?」

 何時の間にか敬語も抜け落ち、帝からの質問に応えるだけとなっている。

れにもう、わたくしは天子様の所有物でもありませんし」

 ぐっと顔を近づけて、菫花妃の真似事をした妖艶な笑みを作って見せる。……との隙に、彼が纏う衣に待針まちばりを軽く刺した。

 誰にも見えない様に、ただ確実に騒ぎになる様に。恐らく衣を担当する物は尋問に掛けられ死刑だろう。上位の妃でもない限り、彼女らの命は鴻毛こうもうよりも軽い。

「おい、こんな物まで仕込んで何をするつもりだ?」

 突如腕を掴まれ、待針を手に帝は霰琳に食って掛かった。

「お気付きになりましたか。常日頃から命を狙われる帝でしたらの程度、ですわね」

「随分な悪戯娘だな、お前は」

「あら、れは如何どういう意味でしょう?」

 皇帝は、この件を大事にする気は無い様だ。仮にそうでなかったとしたら、霰琳の命は消去けしさられる。

「なぁに、深い意味は無い。過ぎた悪戯ばかりする女だと思ったまで

「んふふ、帝がそんな事を仰るなんて。わたくしはれ程まで御転婆娘おてんばむすめなのかしら」

(自覚は有りますけれど、少々不快ですわ)

「ぅわははは、良く言う。町娘も驚く程の転婆さだ」

 機嫌良く豪快にからからと笑う帝に辟易しながらら、扉に向かって歩き出す。

「では、そろそろ御暇おいとまさせて頂きますわ」

 扉に手を掛け、勢いよく開け放つ。

「また、御会い出来る事を娯しみにして居りますわ、天子様」

 霰琳らしからぬ毒々しい微笑みをたたえ、去る……かと思いきや、振り返った。

「あ、御料理はとても美味しかったですわ。御馳走様ごちそうさまでした!」

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