弐 『黎 霰琳』

 玄武げんぶを祀り、北に居を構える一族、リー家。代々、後宮の淑妃しゅくひを輩出してきた一族である。


その一族に生まれた娘——名を、黎 霰琳シェンリン。彼女は齢15で淑妃と成り、約四年間黒曜宮へと身を置いていた。

 ——黒曜宮。其処そこは後宮の北側に位置し、漆黒を基調とした宮だ。元はさぞかし桂景かけいだったであろうの黒曜宮は今、手入れのされていない只の荒庭こうてい寝殿しんでん内に絡まった西洋蔦せいようづたが、薄暗い部屋を作り出している。宮の主足る淑妃、霰琳以外誰も居なかった。


「邪魔するぞ、淑妃殿?」

 ——ふと、衣擦れの音が聞こえたかと思えば、其処そこには菫花ジンファ妃と月汐ユーシー妃の姿が。菫花妃に付従つきしたがう月汐妃は、幼気いたいけな顔で此方こちらにらみ付けて居る。

「菫花様、要件をお話ししては如何いかがなのです?」

嗚呼ああ、そうじゃった、楽しみであったがゆえに我知らず忘れておったわ。何、要件と言う程でもあるまいて。淑妃殿の様子を見に来てやっただけじゃ」

 菫花妃は長い靛藍ティエンラン色の髪を耳に掛け、恩情が垣間見える瞳で語掛ける。其れに伴い、歩揺簪ほようかんざしの瑠璃がしゃらんと揺れた。

「あ……リゥ賢妃、様」

 ひく、と間を置かずして顔を上げた霰琳の身体が跳ねる。思わずといった風に上げた顔には驚愕きょうがくと怯えが垣間見えた。

 彼女らの侍女が見当たらない辺り、寝殿の外に置いてきているのだろう。

 ——霰琳は、淑妃として正当に扱われてはない。官女以下、いや奴婢ぬひ以下の存在だ。

「怯えておるのかえ? 可愛らしい者よのう、淑妃殿は。まあわらわには、足搔あがく事すら出来ぬ憐れなうさぎに見えるが」

「…………ふっ」

「菫花様に対し笑声しょうせいを上げて……到頭とうとう気でも触れたのです⁉」

「い、いえっ。申し訳御座いません。わたくしの失態ですわ」

 ——そんな彼女は、気弱な豆腐精神の持主もちぬしでは無い。

(ふふふふふ。演者えんじゃも真っ青なわたくしの名演技に、琉賢妃もハオ徳妃も騙されているわ。賢妃は賢明で有るから賢妃と呼ばれるのに、如何様師いかさましでも無いわたくしに騙されて……んふふ)

 心でわらう霰琳。れを口に出さないだけ救いであろうか。

(それにしても——、見に来て〝やった〟とは余りにも傲慢ごうまんな態度ではないかしら? 仮にも琉賢妃は現寵妃でしょう、後宮を取り纏める立場として何とも無責任な発言ですわ)

 現後宮には皇后が居ない。後宮の主は帝だが、其れらをまとめるのは妃の頂点、つまり皇后だ。皇后の座が空席である場合は、次位の寵妃が皇后代理と成る。

「申訳御座いません、申訳御座いません……」

 がたがたと肩を震わせ、菫花妃の足元につくばって謝罪を続けた。

何時迄いつまでの耳障りで無意味な謝罪を続けておるのかえ?」

「っ……?」

 逆光を受けた菫花妃の、宝石藍パオシーラン色の瞳が凄味すごみを増す。

(ふふ、恐い恐い。わたくしをどれ程追込おいこんだ所で、痛くも痒くもありませんのに)

 綻ぶ口許と笑声を抑えて、陰気な顔を取繕とりつくろうのは一苦労だ。自然に口許を覆隠おおいかくし、微かに上がった口角を下げる。

わらわの言の葉を無視するで無いわ‼」

「い゛っ」

 菫花妃は霰琳の髪を乱雑に引っ掴んだ。苦痛に耐兼たえかねた苦悶の表情を見せ付けると、月汐妃の眼が見開かれる。

「あ、の、菫花様……? 菫花様は、公務として其れを見に来たのです、よね? まさか、菫花様が抵抗力の無い者をなぶる何て事……」

 自らが慕う者の愚行を受入れ難いといった風に、困惑する丈である。

此処迄ここまではある程度思惑通りでしょうか? 嗚呼、自らが敬慕けいぼする母代ははしろの様な者の本性を垣間見て、嘘でれと切望する面差おもざし……てのひらで転がされてる事にさえ気付けない、幼稚な思考です……晧徳妃の傘下らは、如何どう其処そこに残り続けるのでしょう?)

「……其処迄そこまでの魅力がるのかしら……」

 未だ激昂している菫花妃を見上げてけていると、更に頬を叩かれた。

「ぶへ」

 意図せずこぼれた音に気付かず、相も変らぬ形相で空を見つめる。惚けて思考を続けるが、不快ゆえに舌打ちをした菫花妃が、暈ける霰琳の頬をつねった。

(嗚呼っ、そうでしたわ。あたりで終わらせませんと。此処ここは取えず泣いておきましょう)

「……っう……」

 途端にはらはらと涙をこぼす霰琳に、 眉をひそめる菫花妃一同。

「よく、そうも涙を流す者だのう。興が削がれたわ」

「そうなのです。れでは、菫花様のお手がけがれてしまうやもしれませんっ」

 一言残して去る二人の背を潤んだ瞳で見送った。の隙に、蟲毒こどくむしを菫花妃の裾に仕込む。彼女らの姿が見えなくなると、涙はひたっと止まった。

「んふふふ、ふふふ」

 薄笑いを浮かべながらら、汚れた体と乱れた髪を手早く直す。

「こうして相手の反応を窺うのはとても娯しいわ……態々わざわざ身を汚し惨めに成った甲斐がありました」

 場を作り、自らを偽り続けて作り上げた賜物だ。此処ここ、後宮に入った時から長らくそうしてきた。

 霰琳は、含笑ふくみわらいに似た笑みを深めて手櫛てぐしで髪をく。

「次は、どんな悪戯いたずらをしましょうか」

 ——直後、黒曜宮内にて菫花妃と月汐妃、其の侍女らの悲鳴が聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る