第2話 神島は訪問する

 放課後に訪れた白谷あすかの家は、至って普通と言える閑静な住宅街の中に建っていた。


 床がコンクリートで舗装されている玄関前に立ちチャイムを鳴らすと、インターホンから女性の声が聞こえてくる。


「はい、どちら様ですか」


 聞こえてくるそれは、あすかのものとはまた違う声に聞こえた。不登校児が果たして自分が通う学校と同じ制服の人間がインターホンのカメラ越しに見えているというのにここまで躊躇なく出るだろうかということも加味して考えると、恐らく彼女の母親か、もしくは姉妹などだろうと推測ができた。


 私はいつもより声のトーンを上げて応える。


「突然の訪問ですみません。私、あすかさんと同じクラスの、学級委員長をやってる神島といいます。今日はちょっと担任の先生に頼まれてプリントを届けに来たんですけど、もし良ければ上がらせていただいても大丈夫ですか?」


 明るく礼儀正しそうで、心優しいクラスメイトの演技。私はそれを上手に演じられていることを誇らしく思う反面、自分が柄にもない言動をしていることに少し鳥肌が立つ。


 とはいえ素を出して話せば相手に不審に思われるだろうということは明白だし、信用して家に入れてもらうことが今の私にとっては最重要なので我慢するしかないのだ。


 私はあすかに会えるかどうかに限らず、彼女にプリントを渡すという役目も担っている。学級委員長の肩書きを利用してここまでこられたのは好都合だったが、一度渡したとすればしばらくはこの役回りが訪れることはないだろう。だからこそ尚更、この機会を逃す訳にはいかないのだ。


 数十秒した後にゆっくりと開かれた扉を通ると、そこには背の高い女性が立っていた。見た目から、恐らくあすかの母親なのだろうと推察ができる。


「わざわざ娘のために来てもらっちゃってごめんなさいね」


 娘、という言い方から母親だと確信がつく。


 申し訳なさそうにそう言う母親に「いえ、全然大丈夫ですよ。私も、ちょうど帰り道の道中にあすかさんの家があったものだから引き受けたんです」と返す。もちろん、その理由は事実ではなかった。


 自宅へ帰宅する道中にあすかの家があるのは事実である。ただ、私がここに来た本当の理由は偶然の一致と思われる事実が本当に偶然の一致であったかを知るため。しかし、やはりそのことを正直にこの母親に言えるわけがなかった。


「本当にありがとうね。あすか、今はなんだかまだ体調が良くないみたいなのよ。もうすぐしたらまた学校に行ってくれるとは思うんだけど」


「そうですか」


「でも、またすぐ行かせるようにするから。心配させちゃってごめんなさい」


 少し不安そうながらも朗らかに微笑む彼女を見ながら、私はその無知を察する。なるほど、あすかは親にさえ事情も言わず家に籠っているらしい。新たな情報を手に入れられたことに喜ぶのと同時に、私は彼女に対して哀れみの感情を抱いた。


 きっと彼女は娘が高校に入学してからもう随分と長い間いじめに遭っていることを知らずにいるのだろう。だから今も、色々と疑ってはいるのだろうが、娘が不登校になった理由が分からずに困惑している。


 そうであろうことは、学校内で全くあすかへのいじめに対する対応が無いことから明らかだった。


 例えば、いくら担任が無能だとはいえ、親からうちの子がいじめを受けているらしいのですが一体どうなっているんですか? などと報告がされれば学校側から何らかの対応はあるはずである。しかし、今の所そんなことは行われていない。だからきっと、あすかがいじめを一年も前から受けていることをこの母親は知らないのだ。


「そういえばあなた、神島……何ちゃんだったかしら。あすかに来てくれてたわよって後で伝えてあげたいんだけどいい?」


「え、下の名前ですか? うーん――というか、私二年生で同じクラスになったばっかりなんで、あすかさんに名前なんか言ってもあまりピンとこないと思います。隣の席の子だとでも言った方が伝わると思いますよ」


「そう? じゃあそう言っておくわね」


 ならば、その方が都合がいい。そう私は思う。この状況ならばいじめの件を正直に告げることなく、私も無知のフリができるだろう。あすかの話し相手になってあげる心優しいクラスメイトを演じることができるのだ。


 娘の不登校の理由を求める彼女からしてもそれは都合がいいように思えるはずである。もしかしたら何故休んでいるのか、理由がわかるかもしれない。元気を取り戻して、また登校してくれるかもしれない。


 そんな希望を煽るために私は言葉を口にした。


「あの、それより、すみません。やっぱりこのプリント、あすかさんに直接渡してもいいですか? 少し会って話がしたいんです……」


 片手に提げた紙袋を持ち上げながら訊くと、あすかの母親は先程の朗らかな様子から一変、顔色を変えて、心配そうに傍の階段の上を見やる。多分、あすかの居場所はその先なのだろう。


 彼女は数秒悩んだあとにこう答えた。


「あの子、ずっと部屋にいて……開けてもらえるかわからないけど……それでもいいなら」


 もうずっと部屋の中から出てきていないのかもしれない。物憂げな言い方をする彼女の顔を見て、そう推測した。


 母親の背中を追うようにして階段を上がっていく。あすかの部屋は二階の廊下の突き当たりにあった。


 なんの変哲もない木製の扉は、全くその奥に社会のレールから無理やり外され落ちぶれてしまった少女をかくまっているようには見えない。しかしその扉の先があすかの部屋だった。


 最初、中からは何も聞こえてこなかったが、母親がコンコンとノックをすると、ぱたんという微かな音が鳴って聞こえてきた。しかしそれきりで反応がない。


 次に母親が意を決したような顔をして口を開いた。


「あすか、あなたのクラスメイトの女の子が今日ね、そのう、プリントを届けに来てくれたのよ」


 彼女の話す口調はどこかぎこちない。十数年同じ家に住んできた娘とたった一週間のあいだ話さなかっただけだというのに、その口ぶりはまるで喧嘩別れした相手と十数年ぶりに再会した時かのようだった。


「それでね、神島ちゃん? っていう子なんだけど、あなたに会いたいって言ってて」


 いや、さっき名前言ってもピンとこないと思うって言っただろ聞いてなかったのか、などと思わずイラついてしまっていると、部屋の中から声が返ってくる。


「誰……その人」


 それは学校に通ってきていた時とは違う小さく掠れた声だった。部屋をほとんど出なくなったことから自ずと水を飲む頻度も少なくなったのかもしれない。


 とにかくそれはあまりにも無気力な声で、母親の呼びかけなどどうでもいいというような裏に何の思考も隠れていなさそうな声だった。


 母親が慌てて思い出したように「あ、あの、学級委員長で、あすかの隣の席の子らしいんだけど」と少し焦りを含んだ声で返す。


 それはまるで、娘がどこかへ行ってしまうことを酷く恐れているような、しかしそれを決して表に出さないように接しようと努めているような、そんなふうに見える。


 なるほど、とその様子を見て私は思った。彼女達の関係はきっと既に崩れかかってきているのだ。


 家族などの身近な存在と築いていた関係の方がいざ崩れた時に修復するのは難しい。そんなことは私でも知っている。


 元々距離が近かったぶん、離れていく時の反動が大きいのだろう。だからいざ関係が拗れた時、離れた距離の間に出来上がるわだかまりはとても大きく、治すのが困難になる。当人同士ではどうしようもない。


 その典型例が、つまり放っておけば完全に崩壊してしまいそうな不安定な環が、ここに存在していること。そしてそれが自分の邪魔をしていることに今更ながら私は気づいた。


 簡潔に言えば、とりあえず、これ以上母親に話させていても埒が明かないことに私は気づかされたわけである。


「今、その神島ちゃんが隣にいるんだけどね――」


「お母さん、もういいです」


 母親の発言を強引に遮って言ってから、私はほとんど鼻先がつきそうな距離まで扉に近づいていった。


 当人同士で解決できない問題の解決方法は存外簡単なものである。勝手知ったるような独善的な態度で両者の間に介入するだけでいい。その方法が正解なのかどうかはさておいて、それこそが私のやろうとしていることなのだから。


 私は少しの間次の台詞を考えて、それから扉の先にいる彼女に向けて、初対面の時と同じ、つまり私が素でいる時のトーンで声を出した。


「あすかさん、会いに来たのは私だよ。私が会いに来たの」


 少しの間無音が続く。その場で空気の流れ以外なにも動いていないような無音。


 しかし私には分かっていた。何も聞こえてこないが、きっとあすかは音を立てないようにしながら扉に近づいてきている。


 堂々と外に出るのは怖いから。今まで出ていかなかったのに、この呼びかけに応じていいのか悩んでいるから。そしてそれと同時に『あの日』のたった一度だけだけれども言葉を交わしてくれた相手である私のことを救済者のように思っている。だから扉を開けてもいいかもしれないとも悩んでいる。


 そういうふうに、本当の気持ちは決まっているものだ。あすかはただ、それを行動に移す勇気がない臆病者なだけである。だから、私はそんな彼女の曖昧な気持ちがはっきりするのを急かすように、強い語気で言葉を発する。


「もしそこにいるんだったら、ここを開けて」


 命令口調でそう言うと、隣に立っている母親が息を呑んだのが分かった。先程とは態度が全く違うからだろう。しかし背に腹は代えられない。どうせここまでくればこっちのもんなのだからとやかく言われたって構わないのだ。


 しばらくは何も起きないかのように思われた。


 しかし、目の前の扉の取っ手は少しずつ下りていき、ゆっくりと僅かに開かれたかと思うと、突然そこからあすかの顔が覗いた。

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