第7話 神島は正義を語る

 正しい正義とは、果たして二重表現だろうか。


 これは、人によって判断の分かれるものであろうが、少なくとも私は二重表現ではないと思っている。なぜなら、単純に間違った正義というものが存在すると考えているからだ。


 正義やその反対の悪というのは見方によって容易に姿形を変えてしまうと私は考える。例えば、ある人が世間一般に褒められるような偉業を成し遂げたとしても、それを良くない行為だったと捉える人は必ず一定数存在する。


 そのように、人によって、それが正義であるか、それとも悪であるかは違うのだ。だから、正しい正義と間違った正義がこの世にはある。


 これが、私が正しい正義という言葉を二重表現だとは思わない理由だ。


 もっと言うならば、人の数だけ、正しい正義である、間違った正義である、という解釈の数があるとも言える。


 そう考えると、自分の考える正義が周囲にとっての正義だろうか、などと考えることが、なんて馬鹿馬鹿しいことなのだろうか、とは思わないだろうか。


 そんなことを一々おもんぱかるくらいならば、これが私にとっての正しい正義であると胸を張って生きていた方がずっといい。それで流石に後ろ指をさされ過ぎてしまったら、その時、自分の正義の解釈を変えるか、そのまま突き通すかの判断は自分次第である。


 少なくとも私はそう考えてずっと生きてきた。その生き方が結局、今までの人生にとって有用だったのかは分からない。


 ただ分かるのは、結論として、私はいくつか判断を間違えてしまったのかもしれないということだけだ。


 世間一般で言われる正義を正解とするならば、私がそこからズレていることは私自身も既に理解している。価値観や考え方のズレもそうだ。私は一般的な考えを持つ人間からすると、ずっと捻くれて映るのだろう。そんなことは重々承知である。


 だが承知している一方で、私は私自身を変人などと思ったことはたったの一度もない。


 それに、判断を間違ったことを微塵も後悔などしていないし、そもそもどこで間違えたかも分からない。その都度その都度に判断をした自覚がないのだから。私はそれを間違いだとは思っていないのだから。


 そして、このことにも絶対的な自信はある。私は純度の高い悪ではないということだ。


 私はいくつかは分からないが、確実にどこかでいくつかの判断を間違えてしまった。


 しかし、どれだけ捻くれていても、いくら私を悪だと見なす人間の割合が多かったとしても、その考えが世間一般のものになるレベルに到達はしていない自信がある。


 そこに到達するのは、絶対に間違えてはいけない判断を間違えた時だけだ。私はその判断だけはきっと間違えてきていない。そう自分を信じている。


 さて、ここであやのを引き合いに出して考えよう。


 私と比べて、あやのも今までの人生でいくつ判断を間違えたかなんて分からない。沢山間違えてきたかもしれないし、もしかすると、ほとんど間違えてきたことがないかもしれない。


 そこは、私と同じだ。ただ、それでも一つ、彼女と私には決定的に違うところがある。


 それは、あやのが絶対に間違えてはいけない判断を間違えてしまっているというところだ。


 彼女はたった一つ、人をしいたげあまつさえ人でなしのように扱うという絶対にしてはいけない間違いをした。その点で、彼女は裁かれるべき純粋な悪であると私は断言出来る。世間一般における正義において、彼女がしていることは正しいことではないとも。


 ならば逆説的に、私が正義、彼女が悪という理論が形作られるわけである。私のやり方がどういうものであろうとも、あやのが悪である限り私は正義でいられているはず。


 ただ、もしもだ。例えば、クラス全体も世間一般として考えるのならどうだろうか。きっと、簡単に私とあやのの立場は逆転してしまうだろう。


 私が悪で、あやのが正義。


 なぜなら、あやのの行っている行動を正しい正義だと解釈する人間たちがこのクラスにおいては当たり前のように存在するからだ。それも数名ではない。少なくとも過半数はあやのがやっていることを正しいと思っている。


 残りのやつらは思うところはあるが何も行動が出来ないへたれたちの集まりだから考える意味もない。


 とにかく、そんな小さなコミュニティの中では、あやのの判断こそが正解という扱いになり、私の判断は切り捨てられて然るべき誤りであることになるわけだ。なんという冗談だろう。これは悪い夢かもしれないな。などと笑い飛ばせたらいいが、事実、このままでは本当にそうなってしまいそうなところまで来ているので笑えない。


 しかも更に難儀な点と言うのが、実際には比較対象の標的にされているのが私ではなくあすかということだ。


 自分自身のことならばどうにでも行動出来る。ただ、他人が絡んでくると途端にそこに責任が生まれてしまうものだ。


 あすかが悪、あやのが正義。あすかが犯人、あやのが被害者。


 そんな噂が、今まさにクラス中に広がっている。それが真実かどうかはどうでもいい。


 重要なのは、その作り上げられた虚構の推理が、いかに話題性に富んでいるかということである。


 偶然というよりは、あすかがあやのを骨折させたのだと考える方がずっと面白いのだ。だからクラス内で噂が広まって、だからこそクラスの中を世間一般と定義した時の認識は完全に、あやの側が正義であるというものにほぼ固まりかけていた。


 このままではまずいかもしれない。急がないと、すぐにクラス内の認識を覆せなくなるところまで達してしまう。それというのはつまり、あすかが絶対に救われることがない空間が出来上がってしまうということだ。本当に急がなければ間に合わない。


 と、普通の人間ならば、今頃そう思って焦っていたことだろう。


 だが、私に言わせてみれば、そんなことは有り得ない。そんなこと、起こりようがないのだ。


 どうしてここまで冷静に有り得ない、起こりえないと言い切れるのか? そう問われたとしても別に、私には言い切ることへの理由や根拠が存在するわけではない。


 それじゃあ私は何故言い切れるのか。何か打開策があってそれが成功すると確信しているからか?


 いやいや、そんな計画的に先の展開を読むことが出来る人間がいたら、賢いなんてもんじゃない。そいつはきっと人間を騙るアンドロイドか宇宙人か心理戦が繰り広げられるアニメに出てくる、常に一歩先を読んで根回ししているような天才主人公だ。私は本当にただの人間だから、明確な打開策なんてない。


 私は、なんの根拠もなくただ自信だけを持っている。


 ただ、絶対に私の方が正しい。あいつの方が間違っているに決まっている。


 そんな、ともすれば蜘蛛の糸のように頼りない自信を、無理やりカチカチに凍らせてよじ登る、そんな行動をやり遂げる意志を持っているだけだ。他に何もない。ただそれだけである。


 そうだ。結局考えまくったところで、いつもこんな考えにたどり着くのだ。


 当たり前である。正しさの正解なんて本当は存在しないのだから。


 正しい正義とか間違った正義とか、考えたところで意味はない。私の正しい正義は私だけのもの。ならば、私はあくまで独善的に、自分を信じて自分勝手に行動するまでだ。


 昼休み、購買で買ったカレーパンを目の前にしながら、私はそうやってこれまでの考えを頭の中で反芻はんすうしていた。なんだろう今のは、論説文か何かだろうか。


 全く、暇潰しに私の自己中心的な性格を言語化してみたらどうなるのだろうと脳内で文章を組み立ててみたら酷い出来になってしまった。自分のことながら少し不快になってしまうな。


 もちろん全て事実であるが、どうしてもわざとらしい演技というか、クサい文章が出来上がってしまうのが我ながら鼻につく。


 このことについて考えるのはやめにしよう。もう飽きた。それよりも今はカレーパンの衣がボロボロと落ちていくのをどのようにして最小限に抑えるかについて考えた方がよっぽど有意義だ。


 気持ちを切り替えようとして、私はカレーパンを慎重に一口頬張った。そして、その美味しさを十分に味わうつもりでいた。のだが無情にも、茶色い衣はポロポロと机に、それどころかスカートの上にも落ちてしまった。


 不快な気持ちから切り替えようと思った矢先にこれか。ふざけんなよ。


 怒りの力でカレーパンを早食いした私は、もしかすると今日に限れば教室内で一番お昼を終わらせるのが速い人間だったかもしれない。


 まあ、そんなことに関してはどうでもいいだろう。


 今度こそ気を取り直そうと、私は手を洗うために席を立った。


 廊下に出て、水道までの道のりを歩く。昼休みの喧騒は各教室内から外に響いて、そのために廊下に出ても騒がしさは変わらなかった。


 お世辞にも集中が捗るとは言い難い。どこか落ち着いて静かにものを考えられる場所はないものか。そんなことを考えて歩いていると、進行方向に二人の人間が立っているのが見えた。


 その二人は、私の行く手を邪魔するように、廊下のど真ん中ではた迷惑にもベラベラと会話をしている。


「やっぱさ、氷じゃない? ずっと冷たいし、多分それで決まりでしょ。他に思いつかないんだけど」


「ミナがそう言うならそうなのかなあ」


「そうなのかなあって、ユイはどうなのよ」


「うーん、どうだろうねえ」


 二人とも私が名前を知らない女子。ただ、同じクラスのやつらだということは分かる。おっとり女子とチャラい女子。なんとなくのイメージでそれくらいのことは覚えているからだ。


「ねえ、何かそこじゃないと話せない大事な用事でもあるの?」


 私は何やら神妙そうに話す二人に近寄って、尋ねた。すると、彼女らはぎょっとした様子でこちらを見る。


「どうでもいい会話ならよそでやって。通行の邪魔なんだけど」


 どうやら重要な場面に水を差したというわけでもないようだったからそう指摘した。すると、彼女らは少しの間お互いの顔を見合って、それから片方が返事をした。


「あ、ああ、なんだよ。分かったよ。ねえ、由依行こ」


「うん」


 あーあ、面倒くさい学級委員長が来ちゃったね、とでも言うみたいに、二人は目配せしながら駆け足で教室に戻っていく。そういうのは本人に気取られないところでやれよ、と思った。


 しかしそれにしても、やけに素直に従うな、と思って気がついたが、そうか。今はリーダーがいないせいで威勢が良くないからあんなふうだったのだろう。


 あやのの友人とは名ばかりの、ほとんど手下のようなもの。今のはそういうやつらの一部だった。


 なるほど、あやのがいなければ面倒くさがりながらも素直に言うこと聞くわけか。とそう思うと、彼女の影響力が広いことを実感させられる。


 私は再び歩き出して、ふと、今日の帰りのことを考え始めた。山口には今日私にプリントを病院まで届けさせて欲しいと既に頼んである。あとはどのように話を展開していくか、やはりそこが問題だ。


 まだ帰りまで時間があるとはいえ、流石に少しくらいはプランを考えておく必要はある気がする。二日前とは違う。もう直前というところまで迫ってきているのだから。

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